je suis dans la vie

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小林十市という太陽のレヴォリュション〜『Noism Company Niigata×小林十市 A JOURNEY 〜記憶の中の記憶へ』KAAT神奈川芸術劇場ホール

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[第一部]
Opening I
追憶のギリシャ
BOLERO 2020
[第二部]
The 80’s Ghosts
Opening II

すみません、小林十市さんについては映画『スイートリトルライズ』しか見ておらず、あとTwitterでたまに流れてくるのが面白いな〜くらいでした。一応大昔にダンス関連の仕事に関わってたので、バレエ演目やらベジャールも基本的な知識は多少あり(ただ仕事でやってたので食傷気味になり、最近はさっぱり…)。Noismは新潟に行かれる前後に見る機会があり、また見てみたいなとずっと思ったのもあり。今回3年に一度のダンスの祭典「Dance Dance Dance@YOKOHAMA 2021」の目玉であり、住んでいる横浜で開催されるという身近さもありチケットを取ってみました。

コアなバレエファン、ベジャールやそれぞれのファンへの申し訳なさと、ついていけるだろうかという不安もありつつドキドキしながら劇場へ。

そんな不安もさっくり吹き飛ばすような、構成と表現力の豊かさ、ドラマ性、振り付けの練られた世界観。たくさんの思いが詰まっているけれど、決して閉じていない、外へ大きく放つ、開かれて大きく広がる感覚を受け取り、楽しみました。

それもやはり小林十市さんの、ベジャールのメイン張ってたスター性とセンター力!もちろんそういう構成でテーマだけど、踊っていない時でも放つ存在感。中心にいることを約束された存在であるというのは、よく分かります。

オープニングで若き頃の舞台の写真を見返す十市さん。その頃の活躍は存じ上げないのですが、写真だけでもその煌めきは分かるし、何よりそれを見ている時の佇まいは舞っていないのにダンサーの舞台表現そのもの。台詞がなくとも、体が饒舌なのです。

「追憶のギリシャ」では金森穣さんと井関佐和子さんに招かれるように、かつてのダンスを思い出すかのような、感傷から喜びへの転換。ステップが音楽を感じ始める。いくらか慎重に感じるのは、やはりブランクのためか演技なのか。どちらにしてもドラマチック。金森さんと井関さんの、十市さんを慕うような笑顔が眩しい。

「BOLERO2020」では十市さんは下手で椅子に座り、客席に背中を半分向けて、舞台上のNoismの若いダンサーたちを見守る。この演目はコロナ禍での映像作品だったそうで、ディスタンスを保ったダンサーが自分のスペースでそれぞれに舞う。スマホの縦長の画面が並んでいるかのよう。輪唱のように始まり、時に重なり、交わり、煽り、拒絶し、受け入れる。強く引き寄せ、パッと離す。表現は広がり、欲望、喜び、怒り、感情が爆発していく。音楽とともに衝動は増幅する。

この時、やはり目を引くのは井関さんで、強く鍛えられた筋肉は金森さんの振り付けの表現を全て受け入れ吐き出す。全力で。

そしてNoismに強く引っ張られるように、十市さんが中心に入り天を仰いだラストはカタルシス

第二部は80年代がテーマの音楽や衣装。十市さんの記憶の旅。ベジャールのダンスに精通していればもっと詳しく分かったのかもしれませんが、分からないなりに楽しめました。

事前に配布されたベジャールの詩二篇「La Revolution C'est...(革命とは…)」と「Ou Elle Est La Revolution?(革命はどこにある?)」を読んでいたので、フランス革命や近現代に起こった戦争やフランスにおけるデモなどの社会的なテーマを含んでいるんだなと。この辺はフランス人らしいテーマなので、馴染みがありました(一応仏文卒、一応)。その背景を持つベジャールのもとで、その芸術を体現していた十市さん、そして今もフランスに住む彼がこの革命という言葉に無縁でないわけがなく。社会としての革命、ダンスの革命、そして十市さん個人の革命。

ピエロの格好で、Noismのダンサーに導かれたり、過去を再現されたり、過去から今へ旅していく様。Noismの世界と十市さんの世界は同じではなく、一体にはならないけれど、一緒に旅を続けることはできる。私も一緒に旅をしているような気持ちに。

白い仮面の男を演じた金森さんは、まるでその旅の道を示す道案内人のようで、小林十市というダンサーの起こした個人的な革命の見届け人のようでした。(ただこの白仮面、先日「007 NO TIME TO DIE」を見たばかりだったので、十市さん殺される〜逃げて〜!と思いました。あと「犬神家の一族」のスケキヨっぽいなーとか、いいシーンなのに雑念ばかりだった反省。)

後で調べましたら、ベジャールの詩は1989年のフランス革命200周年(フランス革命のバスチーユ占領が1789年)の頃のものだったらしく。そして十市さんがベジャール・バレエ・ローザンヌに入ったのがまさに1989年なんですね。十市さんは当時二十歳、金森さんは十五歳。金森さんは1992年にルードラに入るので、1980年代の頃の十市さんを知らないということになりますが、だからこその客観的な目線、俯瞰的なドラマになっていたように思います。

ところで革命という言葉、ちょうど大学時代の歴史の講義で使っていた本が本当に偶然出てきて、ちょっと読んでたらこんな一文が。

「Revolution レヴォリュションという語は、もともと天体の動きについて用いられており、17世紀から一国の政治社会制度の急激な変化を意味するようになった」(ジャック・ゴデショ著『フランス革命年代記』冒頭より)

ここでいう天体の動きとは「公転」のこと。ある天体が別の天体の重心の周りを周回することですが、「地球が太陽の周りを公転している」のが一番分かりやすいかと。

今回の公演、十市さんを中心としたNoismのメンバーの公転、重力と重力の引き寄せ合い。まさにRevolutionが起こった舞台、とも受け取れませんか。

太陽(十市さん)は動いてないように見えるが、いまだ燃え光と熱を放つ、他を引きつける強い重力の持ち主である。佐和子さんがインスタライブで「(ギリシャの踊りで)十市さんの重ねた手の圧が強かった」ということを言っていたけれど、それこそまさに重力。ベジャールが残した「回す」「沈黙」「逆」「彼ら」…革命に関した言葉が自然と符合してしまう不思議。

そして「Ou elle est la revolution? (革命はどこにあるのか?)」というベジャールの問い。

「Regarde, voila ici! (見て、ここにある!)」とでも言わんばかりの夜でした。

 

(真面目な余談)

最後にNoismを見たのは2005年。特に井関さんの「Under the marron tree」は忘れられず。今回横浜でNoismに再会し、記憶が鮮やかに甦りました。2005年の時は細く可憐な少女の軽やかな舞いは、切なく儚いイメージ。まだ金森さんと佐和子さんが恋人関係だった頃で、私は当時二人の関係は知りませんでしたが一目で金森さんの深い愛情を感じ取りました。その時は若木のような恋人を愛おしみ、独占したいかのような演出家の思いが感じられるもの。今の井関さんの動画を見たら、力強くしなやかで豊かな井関さんの筋肉そのものの表現に変わっていた。こちらもぜひ生で拝見したい。

(12月26日までの限定公開)

2005年に見たNoism公演の感想はこちら👉金森穣 「no・mad・ic・project〜7fragments in memory」@アートスフィア(2005/02/27) - je suis dans la vie

 

(不真面目な余談)

十市さんが金森さんと佐和子さんとインスタライブをしたのを見たんだけど、公演の話は少ししてるのですが、十市さんがどちゃくそ面白くてですね。

  • 十市さんがお腹が空いて早くご飯に行きたいので予定時間より早く始める(そのためオンタイムで見ている人が少ない)。その言い訳を長々と。
  • 現役アスリート体育会系金森夫妻に「筋トレした方がいい」「レッスン大事」「ストレッチ必須」って諭されて「え〜やりたくな〜い」って逃げまくる。宿題をしたくない小学生のよう。
  • 老眼仕草かわいい。インスタライブ用のスマホが少し離れた正面にあるようで、コメント欄を見るためにわざわざ近づくが老眼で見えない。佐和子さんに手元のスマホを見せられ「こっちでも見れますよー」っておじいちゃんか!
  • 肩が上がらないのを「50肩が…」って言ったら金森さんに「医者は違うって言ってたよ!」ってばらされる。しかし「そうだっけ〜?」とすっとぼけ。(だいたいこのパターン繰り返す)
  • 金森さんらが「あんちゃんが鰻食べてるのインスタで見たら食べたくなって、今度食べにいくんだ〜」って言ったら「君たちは日本に住んでるんだからいつでも食べられるでしょ!」ってちょっと軽くムッとしてた。まあこれは海外在住者あるあるなので気持ち分かるわー。

インスタライブのアーカイブはこちら👉https://www.instagram.com/tv/CVcqnzvD6SF/?utm_medium=copy_link