je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』

7月14日に映画館で久しぶりに鑑賞。109シネマズのエグゼクティブシートも一つ置きの座席指定なのでとても良い👍。

近年の映画鑑賞で、特にシネコン系の客のマナーの悪さにブーブー🐷言ってた私としては、この件のみは嬉しい限りです。

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ものすごーーーーーくだっっっさい邦題だな。原題は普通に "Little Women" なのに。ここでベタに「若草物語」とすると、過去の映像化との差別化ができないという事だとは思う。見た後に邦題の意図は分かるんだけど、それにしても長すぎだし、だったら全部日本語の題にした方がいいのでは。

下記ネタバレありの感想。

原作の話そのままで、話の流れには特に大きな改変はない。お父さんが帰ってくるクリスマスまでのいわゆる子供時代の若草物語(1)と、ジョーがNYに行く続編(2)。

今作は時間軸は続編(2)から始まり、ジョーがNYの出版社に原稿を持ち込むところから。面白いのは、(2)の時間軸で進みながら、(1)のエピソードを重ねていく。その重ね方がジョーが思い返していく方式なのだが、(2)で起きる出来事に似た出来事として(1)の出来事を描写する。特にわかりやすいのが、ベスが亡くなるところで、病気のベスを看病するジョー→朝起きたらベスがいない。(1)では食卓で元気になったベスが朝食を食べている、が(2)ではベスは食卓にはおらず、母親が死を告げる。(1)は(2)の時間軸にいるジョーが見ている夢であった、という構成だ。一連のシークエンスがとにかく素晴らしく、ローリーの告白タイムを凌ぐクライマックスシーンであった。

個人的な話だけれど、実家の猫が亡くなった後だったので、ベスの弱っていく姿が実家の猫の最後の姿に重なってしまい、構成の素晴らしさに感動しつつ、わーんベス死なないでーーー!とありえないほど号泣。猫と一緒にするのも理解しがたいかと思いますが、25年も生きてたのでほぼ実家の末娘感がありまして。そういう意味では性格はどちらかというとエイミーだったなあ。私と性格が似てて仲が悪いとこも含めてエイミーな猫だったな…(すみません、当方売ってる猫缶見ても泣くくらい落ち込んでる時だったので)。

今回、その構成も素晴らしいが、何より新しいのは女性の描き方。

子供の頃に若草物語を読んだ人はあるあるだと思うのだけれど、結構ジョーに自分を重ねた人も多いのでは。自分のやりたい事をやって、男勝りで自分らしく生きるジョー。もちろん今作でもシァーシャ・ローナンはこれぞジョーという演技。その対極で家庭的なメグ、大人しいベス、わがままなエイミーがいて、引き立て役な感があるのが今までの印象。

今回は四姉妹のみならず母親の生き方にも丁寧に描写があり、この時代に女性はジェンダーに縛られつつも個々のありようがあったのだと示す。メグは家庭におさまるけれど、自分でそれを選んでいる事、選んだ後の葛藤もありつつ、その葛藤も自分の選択の上だと確認する。これまでだと専業主婦の生き方はフェミニズム運動の中でマイナスとして取り上げられる事も多かったのではと思うが、きちんとメグにそうではないと言わせているのも好感がもてる。ベスについても、ただ体の弱い悲劇のヒロインとしてではなく、ジョーや家族の精神的な支柱であり強い生き方を貫いた人間としての側面を。エイミーについては特に描写が丁寧で、今までは悪役感あったところを、ジョーとの対立やローリーとの関係性も腑に落ちる描き方。彼女の生き方がジョーに反映してはいるが、決してジョーの影であったり身代わりという意味ではない。どの生き方を選ぶか、自分らしさとは、4人姉妹は意識せずともしっかりと選び歩いている。

結婚する人もしない人も、仕事をしてる人もそうでない人も、どんな境遇の人もその事で他人と比べられたり強制させられたりはまったくもって時代遅れなのだと、古典からこのような表現が生まれるのは眼から鱗であった。

ところで、もう1人のシスター・ローリーについても新しい発見が。「何故ローリーはジョーに振られたのか問題」について、今作ははっきり分かりやすくは提示してないが、ほんのりとなるほどなーと思わせる。

ジョーがメグの結婚に対し異様な拒否感を示すさまは、男嫌いや家父長制への拒否感もあるだろうが、「姉妹に対しての同性愛的執着」もあるのではと。明言はないが、ジョーのセクシュアリティがビアン(もしくは他のセクシュアリティ)ならローリーに対しての「どうしてもダメ」は性的に無理なのだとすれば理屈が通る。しかし原作ではジョーは男性と結婚しており、結局道理が通らないからナシなのではある。ただ今作はラストがメタフィクション的オチなので、この解釈もあり、となんとなく示唆している。

ローリーといえばティモシー・シャラメのローリーはちゃんとナイスかませ犬!だった。でもシャラメが演じることで、崩れても品がある。告白シーンは手も握らないけど、物語の中で一番のラブシーン。

そしてシャラメが一番はかなげで、ヒロイン感ありまくりだった。四姉妹の方が男前でたくましい。シァーシャ・ローナンが特に少年的な雰囲気で、顔立ちもどことなく骨格が賀来賢人くんに似てて(予告の『今日から俺は‼︎』見たせいもあるけど)、美形だけど女性的な感じがあまりなかったため、シャラメの可憐さが際立った。ローリーが屋根裏での姉妹の仲間に入れてもらう時に、誰よりもブラウスが似合ってたあたりなど、意図的にそうしてる気もした。

他の男性キャラについては描写が少なめである中、ローリーは殊のほか特別な存在として描かれており、ビジュアル的にもシャラメありきだったのだと思う。

 

ところでここからまたまた余談になります。

私の中で「かませ犬ベスト3」は

である。

つまるところ、ヒロインがなぜ「器量よし、性格も良し、親の印象も良さそうな彼氏」キャラではなく、ちょっと他とは違う価値観で男性を選ぶのか問題。これ、言語化するのはなかなか難しい部分がある。というのも、分かる人は分かるよね、な部分が大きい気もするのだ。

ちなみに似たような例として、『キャンディキャンディ』におけるテリーは「男の子って少し悪い方がいいの(byキョンキョン)」であり、あれは少女漫画王道中の王道シチュで、女子のイニシエーション的な面もあるのでこれとは違う事を念頭に置いて欲しい。だいたいキャンディは最後に不良のテリーではなく「丘の上の王子様」と結ばれる。

南ちゃんがなぜ「カッちゃんではなくタッちゃんを選ぶ」のか、男性読者は本当に本当に分かっているのだろうか。ダメ男子(もしくはモブ的普通男子、非モテキャラとか)にヒロインが惚れる事で、読者の共感を呼ぶとかそんな簡単な話ではない。反して女性はけっこう納得していると思う。

簡単に言うとカッちゃんと付き合っても面白くないのである。わりと底が見えるキャラで、本人もそこは自覚している。だから甲子園に行って南ちゃんの気持ちをつなぎ止めようとしているヘタレ野郎である(死者に鞭打つ気はありません、念のため)。

カッちゃんが生きてたとして、南ちゃんが新体操の才能があっても「南がやりたいことをすればいい」と理解を示しつつ、マネージャーとの両立ができることを暗に望んでいそうだ。しかし、タッちゃんは憎まれ口を叩き、わざと南ちゃんを枠にはめないようにして、マネージャー業から遠ざけるような素振りすらある。

私が一番好きなエピソードは、料理の下手な新米マネージャーに、南ちゃんの得意料理をさりげなく伝授するところだ。この時、その経緯にプンプンする南ちゃんに言うセリフがタッちゃんのキャラを集約している。

ケチケチすんなよ。
ひとつくらい得意なモノが減ったって、南の凄さはかわらねえよ。

これ、名セリフとされてる「上杉達也は朝倉南を〜」よりよほどすごいアイラブユーだと思う。しかも新米マネージャーのプライドも傷つけず、チームの士気も高めるというグッジョブ。

南ちゃんは「他には分かりにくいけど私には分かる良さ」で選んでるとも言えるが、そもそもタッちゃんはできる男なのだ。タッちゃんは南ちゃんの幸せのためならなんでもする気概があるのは最初から変わらない。

ローリーがなぜ振られたか問題については、先に書いたようにセクシュアリティ問題が隠れているかもなのだが、ローリーがもうちょっとジョーより大人で人格者で、もしくはタッチの和也のような狡猾さ(甲子園に行く)でもあれば違ったのかなとも思う。

もう1人のかませ犬「冒険者たち」のアラン・ドロンですが、ほぼタッチと似た感じなので割愛。リノ・バンチュラめっちゃかっこいいのでおすすめです。