je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「グラン・トリノ」

周りでの評判がすこぶる良いので、やっと見てみました。
イーストウッドが息子にすら迷惑がられ、自分も人嫌いの人種差別の頑固じじい役なんだけど、かっこよいのとおかしいのとバランス良く出てて、遁世人の悲惨な感じがあまりない。だいたい引退して性格の悪いじじいの映画なんて、どういうストーリーだとしても老いの醜さや悲しさが出てしまうのに、やっぱイーストウッドだからですかね。歩く時は腰まげてるのに、銃出して脅す時はシャキーンとしてるし、ヨボヨボ気味なのに男前だし。缶ビールをガブガブ飲んで、タバコをスパスパ、悪態付きながら唾をはきまくる姿は小気味よささえあります。きっと、普段のイーストウッドはきっとシャキシャキなんでしょうねえ。「カット!」がかかると、腰がまっすぐになるのでしょうか。
このじじいが出会う少年タオが「モン族」という、ベトナム戦争時にアメリカの味方をしたために母国を追い出された民族の子。でも、そこで民族とか戦争を大きく取り上げるのではなく、あくまで人間ドラマにして楽しめるようにしてる。モン族についてはわりとさらりと語られるだけだが、この映画の底辺には大きくある。実際、役者もアジア系ではなくモン族から起用したそう。
じじいは隣に越してきたタオの一家を、最初は日本人と勘違いしていた。これはじじいがフォードの組立工であったという経歴から、日本の自動車会社がアメリカに参入してきた80年代に起きたジャパンバッシングを見てきたんだろうなーと推測できる。アメリカ一番、フォード一番な国粋主義の彼にしてみれば、日本人なんか大嫌いなんであろう。でも、タオの姉に「モン族」の由来を聞いたあたりからやはり少し態度が変わってきたのを見ると、やはり台詞になくとも意識はしてたのかなと思う。あと、これは台詞にもあるので、分かりやすいが、じじいは朝鮮戦争に出兵していて、そこで何人も殺してしまったことがトラウマになっている。国は違えど、同じアジア系のタオに対して、無意識に贖罪の気持ちが働いているのは明白。
私がどうしてここを気にしているかというと、昔の事でかぶったことがあったのを思い出したのだ。小学生の頃、デトロイトに住んでいたのだが、まだその頃は70年代後半で、車はフォード車ばかり。アジア人など中国人くらいで、私が行った小学校では日本人を見るのも初めて、日本という国すらよく分かってない人がほとんどという田舎町だった。父は職場では医療関係という事もあってか、あまり人種差別には合わなかったようだが、そこですごくよくしてくれる技師がいて、家族ぐるみで仲良くしていた。その人は、ベトナム帰りだったのだが、おとなしい性格のせいか、なんとなく職場で浮いた存在だったそうだ。割とベトナム帰りは疎まれがちな風潮があった時代だが、何故父に優しかったのか、不思議だった。今にして思えば、日本人だろうがベトナム人だろうが、彼から見たら、見た目はほぼ同じようなものだったのではないか。アジア人などあまりいない(アメリカ系中国人はいたが、彼らはなんとなく異質だった)場所で、彼が懐かしいと思ったのか、罪の意識を感じたのか、はたまた見下して哀れんでいたのかは分からないが、子供の目から見ても、彼が何かしらのシンパシーを持って父に接していたのは分かった。この映画を見て、ものすごく納得してしまった。
ところでこのじじいもポーランド系移民。悪友の床屋もイタリア系。めっちゃ民族の話じゃないですか。結局アメリカの本当の姿なんですな。じじいみたいに国旗を家にかかげて、バドワイザー飲んでアメ車乗って、「自分は純アメリカ人」と思ってる白人が、これを見て喜んでたら結構皮肉だなあと思う。てかアホすぎておかしい。
主題歌がジェイミー・カラム。映画だけ最初の1コーラスがイーストウッドのダミ声になっています。素敵ジェイミーの歌が、ある意味台無し(笑)なんだけど、これもイーストウッドなので許されてしまう。
ストーリーやオチも含めて、イーストウッドって、実は結構「ギリギリの人」なんだわと思いました。そのギリギリ加減がなんともいえない。なんつうか、クドカンのドラマに出てる薬師丸ひろこ的なものを感じます。分かってやってるのか、天然なのか。