je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

読書の効力

ふと、1年に1回くらい読み返したくなる本がある。
儀式のように、1年に1回読み返す決まった本はいくつかあるのだけど、「あれ、そういえば」と、本棚をかき回して、どこにしまったか分からなくて1時間くらい執拗に探す。たまに見つからない(なので買いなおしたりする)。
思い出したいフレーズやら、シーンやら、確認したら満足して、また本棚の奥底に戻し、また1年くらい経つと同じ事をする。だったら、わかる所に置いておけば、という案もあるけど、探したい、のかもしれない。

これを読み返した後に、友人のブログで『とかげ』の映画の話をしていて、シンクロしたのかな、とちょっと驚いた。そういう季節なのか、ばななさんの霊力なのか(あの人、なんかそういうのありそう)。
「癒し」が共通のキーワード。澱のようにたまったネガティブなパワー、見えない未来への怖れ、過去への未練。トラウマとか、傷とか。そういった、誰もが少しは持っている、隠しているであろう思いが、ある瞬間やきっかけで、するっと昇華したり軽くなる。だからといって、不安定な思いは全部は消えなくて、また芽が出て、摘み取らなくてはいけない。
表題作は、すごく好きだ。この先2人は大丈夫かな、と思う。タイミングを間違えず、ちゃんとやっていければ。いや、するだろうけど、ちょっと悲しい感じが残る。だから、読む時は覚悟がいる。
『キムチの夢』の、「あの頃の自分を抱きしめてあげたい」という感じは分かる。「あの時」や、「あの頃」の、可哀想な自分を抱きしめてあげたい。そして、自分の大事な人が、心の中にそういう「可哀想な頃の自分」を持っていたら、やっぱり同じように思う。物理的に不可能なのだけど、そこに行って、手を取って、言葉じゃなくて。
実はいつも読み返したくなるのは『大川端奇譚』。別に共感するわけでも、シンクロするわけでもないのだけど(していたらやばい)、あえていえば読みやすいのだろう。主人公が飄々としているのに、やっぱり癒されない何かがあって、そして謎を解決する。そのプロセスが、淡々としてるけど、あまり乾いてなくてちょうどいい湿度。恋人の「なんとなく大丈夫」という言葉が好き。
登場人物には皆恋人(か配偶者)がいる。でも、どれもラブストーリーではない。一人称だけど、相手がいる中での自分を確認する。それで終わりじゃなくて、過程の中の心の動き。
癒し、ってなんなんだろうなあ、と思う。でも、この本を読みたいなと欲したのは、多分そういううことなんだろうな。
世界は善悪で測れなくて、あの人は本当はいい人で、あの罪人にも家族はいて、誰かの子供で親で。そういうのを考えるのが、嫌になったりして、他の人はこんな事で悩んでなくて、自分だけバカみたいだなあ、とか。うまくやれないなあ、なんて。自分さえ良ければ、という若い頃みたいな考えはもう持てなくて。友達に「そういうことは考えなくていい」とか、「考えすぎ」とか慰められて、「そうかな」って笑ってみたりする。でも、一人になって「やっぱ違うような気がする」とか、偽善的すぎやしないか、と色々思い返して。あの人もこの人も、幸せなんて無理なのかな。ぐるぐるして、へとへとになって。
自分の気持ちが徹底的に迷った時とか、節目には「はみだしっ子全巻一気読み」という、滝に打たれるような荒行を課すのだけど、そこまででもないな、という時にこういう本が役だつ。温泉までいかなくても、おうちで足湯、小雨の降る日のあたたかい紅茶とか。そんな感じ。

井上靖の中で、一番好きかもしれない(ってそんなに井上靖を読んでない)。
『石庭』はとても文学的で、ラストにおける文章の集中力、完成度は群を抜いている。ひんやりとした、恐ろしいくらいの美しさ。『死と恋と波と』は、映画的。今映像化したら、かなり下世話になってしまうだろうけど。
一番好きなのは『結婚記念日』。やもめ暮らしの男が、亡くなった妻を思い返す。貧しい新婚時代、箱根の一泊旅行が当たって、行って帰ってくるまでの顛末。妻は美人でもなく、吝嗇な、特別なところのない女だけれど、その日の、たった一日のことが、今も妻を愛していると思わせる。
いつも読むと、うちの両親を思い出す。両親が若い頃に、冷え性の母の足を、父が温めていた、という「惚気」をよく聞かされた。今も仲はいいが、母の足を温めるのは今は猫だ。だから、余計に、理由なんかないけど、いとおしい、と思える瞬間がいいなあ、っていうのは分かる。