je suis dans la vie

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大人計画「母を逃がす」@本多劇場

帰国後、まっさきに行くのは美容院。あざみ野のTAYA&CO.に行ってるんですが、そこのCさんのカットがほんと良くて。くせ毛の私がまったく寝ぐせがつかない!帰国中は東京の実家なので、遠いんだけど、それだけの価値ありなのです。
カット始まる前に、大人計画の当日券の電話をかけるという暴挙。ちょうどつながったので、Cさんに待ってもらうという迷惑な私。でも、さくさくっと取れてよかった〜。
夕方、下北沢へ移動。観劇前に下北沢をうろうろ。お友達オススメの「武市さんのジンジャーシロップ」を買いに、自然食品店F&Fへ。無事ジンジャーシロップゲット。
早めのお夕飯で、本多劇場近くのbio ojiyancafe+へ。キンメの煮つけ定食、むちゃうまかった〜。一人でも入れる、おされな定食屋さんでのんびり。
さて、久々の大人計画。(以下若干ネタバレありです)
松尾スズキさんの著作は読んでるんですけど、大人計画はチケット取りづらかったりで、あんま見てないの。前に見たのは「イケニエの人」か?ずいぶん前かなー。あれはちょっと、うーん?って微妙な手ごたえだったので、実はそれもあって縁遠くなってたんだけど、今回旧作再演で珍しいし、大人計画再チャレンジ。
松尾さんの作品て、特殊な状況に縛られて、その中でもがくというイメージなんですが、これもそんな感じ。
自給自足自立自発の楽園」をスローガンにした東北の農業コミューン「クマギリ」で生きる、せまい世界の人たち。そこから出られない、そこでしか生きていけない、せまい人間関係。歪んで、善も悪も、そこでしか通じないルール。
ずっとそこで生まれ生きる人、途中から入った人、時々やってくる外界の人、流れ者。色んな人がいるけど、皆歪んでいて、仲良しでもなくて、でも寄り添って生きなくてはいけなくて。
なんか、それって私の広州生活…とちょっと共感してしまいました。いや、広州がどうのでなくてね。駐在生活って、一種の閉塞感があって、この作品のようなドン暗さはさすがにないけど、ここでしか通じない空気みたいなのはあるなーと。駐在生活に限らず、社宅とかPTAとか、町内会とか。会社生活もそうかな。出て行きたいと思う瞬間があって、でもやっぱそんなに簡単には出ていけなくて。
日本人独特なのかなーとも思うけど、宗教団体とか、田舎町とか外国にも似たような状況はあるはずなので、なにげに幅広いテーマですな。
友達に聞いてたんだけど、近藤公園くん演じる一本!やーん!もう!ステキング!やられた、惚れた!抱いて!あのやわ肌たまらんですよ。「一人EXILE」と命名。見た目もだけど、あんなワルイオトコが演じられるなんて〜。公園くん何があったんですかー!
公園くんのパンチ力のおかげで、あやうく遭難しかけたよ〜。なんで一本が、雄介殺害計画を邪魔するのか分からなくなってたし。保険屋だから、当たり前なんだよねー、と後日気付くという。
話がとっちらかってるようでそうではないんだけど、ぎっしりつまってるので、気をつけないとついていけないんだ、と終わってから気付いてしまったという。うーむ、別作品でもいいので松尾さんのまた見たい。
そして改めて皆芸達者だなーと。阿部サダヲさんはガチでうまいんだなー。誰とからんでも関係性がはっきり見える。特にクドカンとの距離感が絶妙。阿部さん演じる雄介がクドカン演じる葉蔵に「友達がほしい!」って言うとこ。コミューンのリーダーなのに、友達がいないという不条理。そしてそれに対して「友達は信じることだ」と騙し、イカサマを言い続ける葉蔵。ここが葉蔵の秘密と密接に関わってるんだと、後でつじつまが合う。そして雄介の変化にも微妙にも影響している。阿部さんは、その心象の変化がうまかった。台詞にはっきり出てるわけでないだけに、表情や動きの微細な変化で分からせる、っていうまさに表現力があーもうすごいわー。
猫背さん演じる蝶子は、常によそから来た人間であるという背景が抜けず、皆がそこから出たいのに、彼女だけがそこにいるという理由を確立したくてもがいて、でも結局彼女だけがそこから逃れられる。その流れがなんとも必然で、一番生命力を感じた。実は主役は蝶子なんじゃないのと思ってしまったり。
蝶子と対極にいる紙ちゃん演じるリクや、たがめちゃん演じるトビラは、そこから出たいのに抜け出せない。これもまた必然。
母である池津さん演じるハル子は、途中その他の女性キャラに若干埋もれがちな部分もあった。どうしても受動的なキャラであり、運命に翻弄され流されるだけの、淡々とした母という立場。タイトルとは逆に結局は逃げることはない母。しかし、逃げないでやはり運命を受け入れるハル子のクライマックスに、この作品の救いがある。
イケニエの人」では萩尾望都の「11人いる!」を連想したんだけど、今作にも萩尾作品の「マージナル」を連想した。唯一無二の創造主としての、象徴となるマザー。不毛の地に君臨する光。母はそこにいることに意味があり、いなくなれば世界の崩壊を意味するというテーマ。「母を逃がす」の初演は1999年であり、「マージナル」は1985年ではあるけれど、松尾さんが影響を受けたとは思わない。というのも、野田作品においても似たようなテーマはあり、他にもよくあるからだ。むしろ普遍的で、やはり母を逃がすことはない。だから、やはりあのラストは必然なのだと思う。
ただ、母を逃していたら世界はどんな様に変わったのか?
いろんな意味で、はまった作品。
カーテンコールで、宮崎吐夢さんと紙ちゃんが司会だったんですが、もう吐夢さんサイコー!前説的な「さそり座の女」の歌詞の不思議さについての小話が一番笑ったんですけど。説明すると面白くないのでしませんが、あのネタ他でもやってるのかなー。
あ、そーだ。松尾ちゃんの大神さんきもかった、きもかった!(2回言ってみた)で、大神さんってなんだったの?いまだに謎だ。