je suis dans la vie

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カミーユ・クローデル展@メルシャン軽井沢美術館

カミーユクローデル。この名前を知ったのはいつだったろう。20歳になったばかりの頃、オルセー美術館で、小さな女性の頭像を見た。白く、両手に包み込んでしまえそうなそれは、目を閉じて微かに息をしているかのように静かにそこにいた。「瞑想(パンセ)」という題のその石膏像は、ロダンカミーユをモデルにしたものだ。
メルシャン美術館に飾られたカミーユの作品は50点ほど。ほとんどが個人蔵だが、彼女の代表作ばかりが並べられる。いや、おそらくは、彼女の短い創作時代を考えれば、そのすべてが代表作であり、その情熱のすべてが注がれた。
カミーユといえば、ロダンの弟子であり愛人である。まずそのことが取りざたされる女性彫刻家であり、人生のほとんどをロダンとの愛憎に捧げたといわれている。実際、死ぬまでの30年は、精神を病み、精神病院で生涯を終え、その間はまったく創作をしなかった。
カミーユロダン、そしてロダンの内縁の妻ローズとの葛藤を表した「分別盛り」。老婆に引きずられるように、若い女へ背を向ける老人、その老人に膝まづいて懇願する女。これには、色々なパターンがあり、これは第二ヴァージョン。老人の重心が女の方にあり、老人の手が女の胸に抱かれているのもある。
「ワルツ」は、重心を失った男女が倒れるようによりそい踊る。カミーユと一時恋仲にあったというドビュッシーとの関係を表わしたとされる。感受性豊かで繊細な芸術家二人が、はかない想いで肌を寄り添わせている。
カミーユの作品は、その心象風景をドラマティックに、しかしリアルに描き出す。激しく、繊細で、いつも圧倒され、取り込まれる。ねじれ、流れるような、少し歪んだ形、ずれた重心。ぱっと見ると、一般的な美しさとはずれていると思うだろう。けれど、近くで見るとなめらかなライン、温かな血の通っていそうな人のからだ。彼女の想いは時を越えてなお、その作品に熱を持つ。
私はカミーユに魅入られた時から、ロダンにいい感情を持てずにいた。ロダン美術館には、カミーユの作品のためのスペースがある。それを見るために行った時も、亡くなってからもロダンのもとにいるというのは、彼女の本意ではないはずだと思った。彼女はただひとりの芸術家であり、その人生をただひたすらに生きた。誰かを愛した事も、狂ってしまったことも、不幸も幸せも、ただ彼女一人のものだ。
今回の展覧会は、小さいながらも、カミーユ自身の歴史を丁寧にたどる形となっており、その中にロダンの影を無視するわけにはいかないのだが、彼女だけの作品が空間をつくっていたことがよかった。
けれど、オルセーに行くたびに、私は「パンセ」に会いに行く。まるで、カミーユに会いに行くように。目を閉じたそれは、すべてを自分の中に閉じ込め、受け入れ、子供のように無心だ。
今回、「フランス」と名づけられた、カミーユをモデルにしたロダンの作品があった。少女のような清らかな瞳をしたそれは、やはり「パンセ」と同じように、周りを寄せ付けないような凛として、それでいて、少し柔らかな落ち着いた風情だ。
ロダン自身は、どう思っていたのだろうか。手に入れたくて、結局入れられなかったのは、ロダンの方だったのではないかと思う。「パンセ」にも「フランス」にも、支配という想いは見当たらない。ただ小さな少女をそっと守りたいという、弱い男の心だけが微かに見えた。