je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「MYTH」@青山円形劇場

弁護士に連れられ、青年が友人とともにある屋敷を訪れる。屋敷の主は青年の父親。両親の離婚で、ずいぶんと会っていない。そして父親はもう死んでいる。弁護士に、遺産として残された屋敷を案内される青年。ひとりでいると、父親の幽霊が現れる。

まず、思ったのは、ポール・オースターの設定に似ている、ということ。父親探し、遺産、禁治産者。オースターの作品によく出てくる。というより、息子が自らの存在になんかしら意味をもたせようとあがくとき、父親の存在は絶対なのだろうかと思う。
鈴木勝秀さんのオリジナルテキストは初めてだった。だが、演出のそれと、なんら表現方法は変わらない。言葉について真摯であり、重くも軽くも扱わない。ここにはこの言葉。運命のように配置されている。何度も繰り返された、誰かによって語られた言葉が、そのあるべき時に、正しく。
今までの作品を知らないのだけれど、中盤のものすごい急ブレーキには、ぐっさりやられた。弁護士の家庭事情についてのくだりだが、スピンするほどの衝撃があった。それだけに、ラストの着地方法が「うわ、それずるい!でも、すごい!」と思わせてしまう。しかもあざとさはない。そこもすごい。
作り話、嘘、架空の人。いろんな意味があるMYTH。青年の話も、父親の幽霊も、友人の存在も、どれが真実かは分からない。お金の話が何度も出てくるが、父親に幼い頃もらったという1万円。友人には適当に使ったといい、父親にはまだ残してあるという。高校卒業の時にもらった50万円を、友人には生活費にしたといい、父親には宝くじを買ったという。父親が当たったという三億円の宝くじ、青年が当たったらいいなと思う1億円。どれもただの記号でしかないのに、青年がそれを言葉にする時、何かの意味を持つ。使い道がなんであろうと、父親との関係性を語るとき、具体性をもつもの。彼が欲しかったのはお金ではない、という言い方もロマンチックだが、所詮父親が存在を示す時に使えるのはお金くらいしかないというのが本当のところだろう。そういや、友人が「50万円っていうのも微妙だよな」という台詞があったが、なんで50万だったのだろう?そして、何故家だけを遺産として残したのだろう?その謎は謎のままだ。
弁護士の存在は救いであり、狂言回しであり、水先案内人であり、父親の平均的なモデルケースである。不思議だったのは、弁護士の台詞が、いちいちうちの父親が言う事と合致していた。まるっきり同じものもあった。父親という存在になって経験し、学んでいく事は、それほど大したことではないのかもしれないが、シンプルで事実そのものなんだろう。
青年は自分の世界(繭)から出て、現実を見ようと希望あるラストだった。しかし、現実はもっと重く、つらく、くじけるものかもしれない。彼が見ていく世界が、果たして耐えうるものか、幸福に満ちているか。人を受け入れ、自分を受け入れ、ただただ歩いていく。それを彼が知った事は紛れない事実だ。そしていつか、彼が迷える青年に、弁護士が語ったことを語る日が来るのかもしれない。そしてくるくる世界は回っていく。