je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「イヌの日」阿佐ヶ谷スパイダース@本多劇場(楽日)

(あらすじ)
高校を卒業後、進学も就職もせずに悪友たちと遊び暮らす大瀬幸司。ある夏の始め、仲間内のリーダー格である中津正行からある仕事を頼まれる。中津が海外に行っている間、「ある人たち」の面倒を見てくれというものだった。大金に釣られ安請け合いした大瀬であったが、その「ある人たち」とは恐るべき状況下にある者たちであった・・・。

この日はちょいと体調が悪く、観る前は「こんな時にこういうの見て大丈夫かしらん」というような状況。途中でくらっと落ちそうになり、隣の友人に迷惑をかけたかも・・・。まあ、体調が悪いと、精神の方まで気が回らないのか(あるいは集中できないのか)、いつもほど変な思い入れなく見れて、私にはちょうどよかったかもしれない。
しかし集中してなくても、内容の重さは変わらない。重いけど面白い。友人に薦められ見るようになった阿佐スパだが、いつも終わった後に敗北感が残り、しばらく考えさせられる。なのに、変な充実感。ああ、これってパンチドランカー?とか思う。あたし、ほんとはSなんだけど。
さて、あらすじの中の「ある人たち」というのは、中津に「監禁されている人たち」のこと。しかも、監禁したのは中津が小学校の頃で、4人中2人は同級生、1人が年上のご近所さん、1人が友人の妹。舞台は上段と下段に分かれ、上が中津と母親の住む家、そこに中津の友人がたむろし、母親は男を連れ込んでいる。下段は監禁されている人たちの暮らす防空壕
始まった瞬間から、そもそも17年も監禁しててその後どうすんのよ、とハラハラ。「LAST SHOW」の時もそうだったが、先が読めません。皮膚病の嘘のとことかほんとにだまされかけた。
自由であるはずの上の世界の方が不自由で、監禁されている4人の方が明るい。電気が灯る部屋より、薄暗い防空壕の方が騒がしい。いろんな対比が、上下で楽しめた。
友人に「長塚君の女性描写は歪んでる」と最初の頃に教えてもらったが(どんな薦め方だ)、今回もなかなか面白い歪み。「あたしと煙草とどっちが好き?」って長塚君、言われたことあるんじゃないのかい?いや、この前日に私も相方に同じ台詞を吐いたのでびっくらしたよー。もちろん、私の場合は冗談で言ったんだけどさ(運転中に「煙草くれ」って言うので、危ないから吸わせたくなかったので)。
他にも荷物持たせるとこ、麻雀牌拾わせるとことか。
だけど、女性に対して、ある種の憧れみたいなのも感じる。菊沢にしても母親にしても、中津が執着するだけの魅力がある。どん底でも、何かにしがみついて生き抜いている。陽子にしても、男にいいように使われながら、気にしないおおらかさ(?)。新しい彼氏が宿無しでも気にしないし。柴は一番年下で、まだ少女だったけど、彼女のその弱さこそが孝之の生きる糧。その女性たちの何をも受け入れる器の大きさ。形は美しくなくても、その辺はいつも感じる。実は、そういう風にめちゃめちゃな形で愛されたいんじゃないの?なんて思ってみたり。
長塚作品て、女だけじゃなくて、男もどうしようもなくて女々しい。でも、こういう人いるわーって思う。自分とかぶってると、痛いなあとも思うけど。でもみんな優しい。優しくて傷つきやすくて、むき出しで。
相変わらずおいしいとこもっていく中山さん。台詞の影に隠された想い、という表現がうまいよなー。チラッチラッと見える感じが。ベタな台詞も難なく。
そういや、終わった後で思ったのだが、監禁されていた4人の親、というのはどうしていたんだろう。初演では犯罪に対してのバックグラウンドがまったくなく、今回は中津(加害者側)の理由付けがされている。別に正当性やら、愛情の有無やら、無理に探さなくてもいいのだけれど、もし次回の再演があるなら、孝之の家族のエピソードを持ってきてほしい。何故に彼は年下の中津に易々と監禁された(され続けた)のか、「だってお母さんだよ!」の意味は?
人は何をして「失った」と定義付けるのだろう。いつも長塚君の芝居で思う。失って得たものもあるなんて、ステキな言葉もあるけど、失ったもんは失ったもんだし、とか思う。
終演後に行ったお茶&京風おばんざいのお店おいしかった〜。