je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「タイタス・アンドロニカス」@彩の国さいたま芸術劇場

久々のさいたま、蜷川シェイクスピア
今回は、まさに血で血を洗う復讐の連鎖。最初から最後まで人が死にまくります。殺されまくり、血がどばーっと、色んな意味でアイタタなジェットコースター芝居。
始まり方が面白い。ロビーには衣装や甲冑、小道具が置かれ、出演前の俳優さんが順々に取りに来る。主演の吉田鋼太郎さんに遭遇。舞台では、スタッフさんが役者のメイクを直し、セットを動かし、役者は体をほぐしたり発声練習をしている。スピーカーから「そろそろ始めようか」というアナウンスで、皆位置に付き、合図で芝居が始まる。その瞬間から、客席はローマ市民の役割を与えられる。
舞台は前皇帝の息子サターナイナス(鶴見辰吾)とバシエイナス(横田栄司)が帝位継承権を争っている、古代ローマ。武将タイタス(吉田)がゴート族との戦いに勝利し戻ってくる。息子を失ったタイタスは、その弔いの生贄として、捕虜として連れてきた、ゴート族女王・タモーラ(麻美れい)の息子を、タモーラの目の前で殺す。
そして、復讐の連鎖が始まる。
とにかく展開が速い!残酷なシーンも、長い台詞もあっという間に進み、考えている暇がない。それだけに、ひどい話なのにポンポンと進むのでおかしみがある。二幕の長丁場なのに、長さを感じさせない。しかし一幕を終わった頃にはその密度の濃さにぐったり。
とにかく、これだけ残酷な事がよく思いつくなあと思う。物理的にも、精神的にも。ウィリアム・・・、あんたアホだね?と思うことしばしば。時代の寵児クドカンだって思いつかないよ。アホっぷりは褒め言葉ですよ。
しかし、ここでああしなかったら、もっとこの人がこうしてれば、と思うことしばしば。いや、それでも、何かしらの血は流れていたのだろうけどね。とにかく、登場人物が考えなしな人が多すぎて、「おい、ちょっと待てよ」と言いたくなる。冷静に考えようよ。なんて思っている間に、また殺されて、その復讐でまた血が流れて。
とにかく、誰一人として同情できない。しかし、憎めない。人間味がありすぎて、どの人の言葉も生々しく届いてしまう。状況だけ見たら一番可哀想なタイタスの娘・ラヴィニア(真中瞳)だって、うーんしょうがないかも、と思ってしまう自分がいる。ラヴィニアをそんな目に合わせたタモーラに共感さえしてしまう。タモーラのバカ息子二人に犯される前に、「同じ女でしょう、お願い」と一生懸命ラヴィニアが延々と懇願しても、「何言ってるか分からないわ」と一蹴。それさえも、そーだよねー、って思う。しかし、この辺のくだりは速度があってよかった。女としてみたら、結構ひどいシーンだ。だって、強姦されて、舌と両手首切り落とされちゃうんだよ。ひいいい〜。ウィリアムのひとでなし!
再演という事で、真中さんも麻美さんも役にぴったりはまっている。吉田さんにいたっては、もう役者・吉田鋼太郎ではなく、タイタスにしか見えない。技術としてうまいだけじゃなくて、乗り移っているよなあ。
そして、影の主役、ムーア人エアロンの小栗旬くん。見るたびに成長している。堂々とした立ち回り。台詞回しも見るたび良くなる。今回は、肌を黒くし、髪を白に近い金髪に染め、汚れ役を熱演。シェイクスピアでの黒人の役回りは、いつも難しいと思うが、その複雑な役をすっきり分かりやすくしていた。姿かたちの美しさも手伝っているが、彼の演技への反射能力はどんどん研ぎ澄まされているようだ。なんとなく思ったのだが、役者は普段は無表情な方がよいかもしれん。舞台に立ち、眼光を鋭くし、眉をぐいっと上げただけで変化を示す。その変化の瞬間がこちらをゾクリとさせる。
シェイクスピアの作品を、特にこういう悲劇を見ると、心地よいまでの敗北感すら覚える。普遍なものは決してポジティブではない。でも、そういうえげつない本能が真実を語ったりする。所詮お前らもこんなもんだよ。肌が白くても、黒くても、血は赤い。愛したり憎んだり、泣いたり叫んだりするのが関の山なんだよ、って。
あと、親子の関係についてはいつも深く考えてしまう。切っても切れない、とはよくいったもので、どこまでも付いてまわる。時代性もあるが、誰もがどこかで忘れられない。だからシェイクスピアはどの時代も愛されるのだろう。