※ネタバレありますので、これから観劇の方はご注意ください。
今回は松本潤さんが出演とのことで、いつもよりさらに注目度が高く。同月にシアターイーストに行った時に、当日券の抽選待ちの人が一階のみならず、イーストとウエストのある地階でひしめき合っていたことからもそれはうかがえた。知人曰く、600人の抽選だった日もあったそう。入場すると、パンフ売り場はいつもよりも並んでいて、あんなにパンフが堆く積まれているの初めて見たかも。紫色の服の人が多いなと思ったら、案の定松本さんのテーマカラーだそうで。
さて今回はロシアの文豪・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がベースになっている。公式HPの毎度お馴染みの野田さんの手書きメッセージに「原作小説長いから読まなくても大丈夫」とあり。もちろん読む気はさらさらありませんでしたが!でも元文学少女の端くれとして、関西のお出汁の色くらいうっすら内容は知ってたのでまあまあ話には入りやすかったかも。
しかし野田地図の場合、元ネタは単なる隠れ蓑になっている。その下に敷き詰められた本来のテーマに至る瞬間に、ドーンと井上尚弥並のパンチをくらう、のが分かってる、ので始まる前はリラックスして頭空っぽにしている。いざという時にはタオル投げ入れられるようにしておくが花なのである。確かに原作は分かってたらさらに楽しめるのではあるのだが。しかしさらにその元ネタよりも、奥底の本質の方をどのくらい分かっているか、というのがこれまた重要になってくる。
客入れBGMは今回はいつもの60年代〜70年代あたりのソウルやフォークでなかった。多分今回は坂本龍一&高橋幸宏追悼だったのだと思う。YMOがあったか気づかなかったが、矢野顕子の「丘を越えて」が聞こえてきてはっとした。
演劇の目に見える部分(物語、美術とか)
<公式からのあらすじ>
この芝居は、父殺しという“事件”を扱ったサスペンス。
舞台は、日本のとある時代。物語はある花火師一家の三兄弟を軸に展開する。
三兄弟は、長男が花火師(松本潤)。次男が物理学者(永山瑛太)。三男は聖職者(長澤まさみ)である。
この長男と父親(竹中直人)が、一人の“女”を巡る三角関係を織り成し、“父親殺し”へと発展する……
『カラマーゾフの兄弟』は『唐松族の兄弟』になる。原作にある「長男・ドミートリィが女・グルーシェンカを巡って父・フョードルを殺した容疑をかけられた裁判」が大枠となる。
長男・唐松富太郎(松本潤)は 父親・唐松兵頭(竹中直人)を殺しているのかいないのか。検察側の証人、弁護側の証人のそれぞれの証言によって殺人までの過程が何度もリピートされるが、それは都度少しずつ違っている。
長男と父が恋する女はグルーシェニカ(長澤まさみ二役)といい、裁判中何度も名前は出てくるが、実在するのか分からない。なぜなら、女の名前は火薬の名前と一致する。花火師の父と長男は、女を巡って争っていたのか?戦時中に貴重な火薬を巡って諍いが起きたのか?
そこに次男・唐松威蕃(いわん/永山瑛太)と三男・唐松在良(ありよし/長澤まさみ二役)、在日本のロシア要人の妻・ウワサスキー夫人(池谷のぶえ)、長男の婚約者・生方莉奈(村岡希美)との関係、 盟神探湯(くがたち)検事(竹中直人二役)と不知火弁護人(野田秀樹)の思惑、唐松家の番頭・呉剛力(くれごうりき/小松和重)の証言、などが絡みながら本質へ繋がっていく。
今回はわりと早くにネタバレがあった。というかそもそも美術の時点で分かりやすい。
舞台には2つの半円のアーチがある橋状のセットが奥にある。要はそれはあの「眼鏡橋」である。舞台下手から上手に向かって少し傾斜があり、橋のブロックの部分に何か収納されている(花火の火薬と後に分かる)。手前に椅子が3つあり、金属棒が正面に2本「X」の形に配置されてるので、それが少し目眩しになっていたが、わりと早くに「舞台は長崎」と気づいてしまう人も多かったろう。
とすればメインモチーフの唐松家の「花火」とは何を指しているか。長崎で過去にあったことを知っていれば、自ずと分かってしまうものである。
もちろん長崎以外にも眼鏡橋はあるのだが、戦中で次男が物理学者、三男が聖職者ときたら、それは長崎のあの事でしょう、としか。
あまりにも分かりやすいので拍子抜けした。そろそろ原爆についてはやるかなと思ってたが、すでに『パンドラの鐘』があるので、今度は広島かなとうっすら思ってたが、やはり野田さん縁の地・長崎であった。
ネタバレ(は英語でspoiler)
花火の火薬とは原爆のウランのことであり、物理学者の次男は日本で原爆開発をしているチームの一員として描かれる。三男は聖職者、つまり浦上天主堂で神に仕えている。そして長男は花火師、原爆の点火装置を作ることのできるキーマンとして描かれる。
岡山にあったウラン鉱床、開発途中であった「落とされなかった日本の原子爆弾」も効果的に描かれる。しかしそれだけではなく、様々な事象、国、そして人が配置され、三角になる関係性が重なりモザイク模様のように最後の瞬間へと導いていく。
三角は3人の兄弟の関係、父と長男と女の三角関係、東京から来た弁護人と地方検事と長崎の事件、といった人間関係やその力関係におけるものからはじまり、日本とアメリカとロシアという三角関係も描く。相対性理論についても三角に関する元ネタがあるんだろうなと調べてたのだが、難しくて断念。誰か教えて。
他にも色々あるかなと調べていたら、長崎原爆資料館のホールの天井のガラスは三角を並べたデザインになっている*1。
あと 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館には「追悼空間」という12本の柱(棚)が立てられているエリア*2があるのだが、劇中でポールを使って、この柱を思わせる演出があった。 柱(棚)には原爆死没者の氏名を記載した名簿が納められており、この名簿棚の方角には原爆落下中心地があるという。舞台は長崎そのものであり、平和祈念館へも通じていた。
ちなみに劇中このポールが並んでいるシーンは『欲望という名の電車』の冒頭シーンを引用するが、これはロンドン公演のためもあるだろう。ポールが模した電車は追悼空間であり、それを抜ける(電車に乗る)と原爆落下中心地へ向かうという意味が含まれている。電車は長崎の路面電車でもある。
参考:
- 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
- 追悼空間の映像。劇中の電車のイメージと重なる。:祈念館紹介動画 - 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
野田地図における俳優の存在感
野田地図はワークショップを経て、さらに俳優陣が能動的に制作に参加している。主演俳優のみならず、脇や群舞においても同じである。
その制作法でも、野田秀樹という大きな軸があるため、主演は光り輝き、主たるメッセージは彼らから放たれる。
今回それは松本潤であり、長澤まさみと永山瑛太である。さすがに華があり、3人とも技巧とは別の、舞台の真ん中に立つ事を許された者が持つ力を遺憾なく発揮していた。
今回は群像劇の面もより強く、脇もいつもより前に出ていたように見えた。村岡希美さん、小松和重さん、竹中直人さん、池谷のぶえさんは技術のみならず、それぞれをフューチャーするシーンが長めだったり演出も凝っている。
村岡さんが相当抑えめの照明の中、着物を脱いで背中を見せるシーンがある。長澤さんがグルーシェニカを役を演じる際は露出多めだが、明るくあっけらかんとさせていて、村岡さんの暗くじっとりとした雰囲気と対照的で印象的に演出されている。小松さんは裁判シーンが多く台詞が多めだったし、竹中さんは今回ラップを駆使して役を越えて本領発揮な面を見せた。
しかし誰よりも印象が強く残ったのは池谷さんだった。
野田秀樹におけるミューズは、大竹しのぶ、深津絵里、近年は松たか子、宮沢りえというところだろう。近年は橋爪功あるいは高橋一生も入るように思う。
このラインナップの共通点は「野田秀樹が自分の分身として配役する」ということではないかと考えている。野田さんの少女性あるいはジェンダーレスな部分を投影する役が多いからか、中性的なイメージがある。
橋爪さんは男性で年配、という違いはあるが、ちょうど野田さんが年を経て見えてきた頃の、老いや広い経験値の表象として適役だったように思う。
今回は池谷さんの存在にそれを感じた。ご本人も当初この役はてっきり野田さんが演じると思っていた、というくらいだったそう。しかし見た後だとこれは池谷さん以外にはありえないとも思わせる。ウワサスキー夫人という個であり、戦時中のロシアそのもののメタファーでもある。大きく複雑な役を、軽やかにコミカルに嵐のようにおおらかに演じていた。ちなみに特に大爆笑だった「猫の名前はケラリーノ・サンドロヴィッチ!」は池谷さんのアドリブから生まれたらしい(パンフの俵万智さん短歌より)。そしてこの観劇の日にケラさん来てたらしい。
戦争という主題の強さ
その濃淡が濃く印象的な俳優たちの演技を見ながらも、最初から最後までずっと演劇のショー的な楽しさやスター俳優による華やかさは控えめに感じた。これはどうしたことだろう?
ラストに近づき、花火の音が原爆が長崎に落ちた音として使われる。これは想定内すぎた。しかしもしリアルに再現した時の衝撃の大きさ、毎日劇場でこの惨劇が再現されることを考えると、これ以外の演出はないともいえる。
爆撃の後、濃いグレーの大きな薄布でフワリと覆い、瓦礫と焼けた死体を表現する。布を使った野田地図の特徴的な演出がピタリと合う。
そして岡山に行っていて生き残った長男が、弟たちの死体の上を歩く。
ここで長台詞があったが、私はもう涙でつらくて大半を忘れてしまった。それでも松本潤の存在感は大きく、彼のスター性がかろうじて焼き尽くされた街で取り残された生者の悲しい叫びと祈りを伝えてはいた。言葉、ではなく微かな存在感として。時を越え、79年前の光、そこにいた人の気配が今そこにやっと届いたかのように感じた。
エンターテイメントと切っても切れない関係の演劇や映画という表現は、戦争という主題の重さに耐えきれない。調和はなかなか難しいのだと思った。特に原爆については。
この辺は井上ひさしがかなりうまかったと思う。
かといって野田さんができてないのではなく、かなり分かりやすかったし、スター配役する事で今まで戦争劇に縁がなかった層を呼び込む効果があった。
こまつ座だと年齢層高めだし、ある程度戦争や原爆の理解度が高いので創作しやすかったろうが、分かりやすさやとっつきやすさから離れる面もあったのではと思う。
松本さんファンの中にはキラキラした彼を見たかった方も少なくなかったと思うが、今回これだけ自身の最大の魅力を使わず、しかしその培った求心力を必要最小限だけは用いて、戦争演劇という主題に集中して身を投じたのは大変すばらしかった。アイドルとしての自分を殺したのではなく、そこを必要な分だけ取り出した独自の技術ともいえないか。アイドルらしからぬ体型やヒゲについてのコメントも見受けられたが、そんな事は瑣末なことである。
唯一キラキラ松潤らしい、思ったとこがあって、ソファを乗り越える時に足だけで軽くジャンプするのだが、あれは『花より男子』でやってたやつだー!と思いました。
今回は全体的にも、戦争を単なる素材として消費することは徹底して避け、演劇特有の表現でアピールするのもかなり注意してシンプルにしようとしていたと思う。それが俳優陣の強い個性をいくらか抑えたのかもしれない。
それは「演劇」という枠に留まらず、その奥にあった事実、今もある現実を提示することになる。過去も現在も未来も繋がっている、と伝えようとしていた。それが強すぎたら、もはやそれは演劇とは言えないかもしれない、が野田秀樹はそれを超えたいと思っているのかもしれない。
美術セットで今回、プロセニアムアーチ的なブルーグリーンの幕が下手と上手と上部にあった。唯一フィクションを強調した美術だった気がする。
リアルに寄せない美術や音声、しかし反して俳優はより事実に近づいていくような、ある種異化効果の演出のようでもあった。
海外公演を意識した演出
今回、台詞が思ったより野田秀樹的な言葉遊びが多くない気もした。もしかしたら海外公演の時の英訳を見越してか、もしくはすでにか英訳があるのか。猫の名前はどうするのだろう。
あと日本とロシアとアメリカの関係性の中に、イギリス批判はなかった。そもそも大戦の中でイギリスが関係ないことなんてないのだが。これはロンドン公演のためか、あえてなのか。
日本への原爆投下を一種のジェノサイドと表現した時に、欧州において今のガザの惨状は確実に想起される。劇中で手のひら返したロシアは今ならどこに当てはまるだろうか。
野田さんに広島を描いてほしい気もするが、今回長崎にした効果は「教会」というキーワードが大きい。カソリックの教会に原爆を落としたことの意味、イギリスでどのように受け止められるか気になる。イタリアだったらもっと問題になるが、カソリックを排除した国でどういう反応が起こるか。
余談という名の雑文
先日、卓球の早田ひな選手が「 鹿児島の特攻資料館に行きたい」という発言が話題になった時、保守とリベラルの間でコメントが案の定二分したのが記憶に新しく。
早田選手は鹿児島の出身なのかな、と思ったら福岡ということ。同じ九州だからとも思ったが、ちょうど昨年末にラノベ原作の特攻をテーマにした映画が話題になったからもしかしたらそれを見たのでは?
という話を家人にしたら早速配信で見はじめたので、私は全く興味なかったのですが横で他のことしつつ斜め見。戦争をネタにした若者デート映画と思ってたのですが(まあその要素は大いにあり)、俳優陣の演技がかなりしっかりしており思ったよりはしっかり見せる感じではありました。脇の松坂慶子とか中島朋子はもちろん、警官役の津田寛治さんなんかちょっとしか出ないのに「この非国民があっ!」とよくある戦争ヒール役をしっかり演じてて。なんなん、この無駄にいい演技見せる演出(褒めてねえぞ)。
戦争をエンタメ的に消費させた時点で、映画としては全然駄目だしありえないけど、若者のとっつきやすさはすごくあるのかも。
他にきちんと戦争を描いてる映画はたくさんあるけど、難しい、重苦しいと敬遠されてしまう。では戦争を知らない層に見てもらうためには?という事を万が一考えてたなら、マーケティングとしては成功なんでしょうけど…。
私は家人が広島生まれで、その親戚も広島に多くいるのでここ20年くらいはかなり近い土地となりました。それより前は、高校の修学旅行は広島と長崎で、がっつり平和教育する学校だったし、小学校も公立だけどわりと保守的なとこだったのと、世代的に戦争の話は授業でたくさん出てきた方。東京なので大空襲の話もその頃はドラマや授業でよくあったかと。教師側に戦争体験者が多かったというのもあるでしょう。
でも今は若い人にとっては細かいところが伝わりにくく、解像度が低いのかも?
と思ったのは、芝居で「竹やりで敵の戦闘機に向かっていく訓練」を演じるシーンがあったのですが、これ実際にあったことだと知ってる人がもしかしたら少ない?演出の流れで確かに笑いを誘うシーンになってて、あえてその意図(おかしなことをしているという皮肉)があったとは思うけど、けっこうしっかり笑ってる人が多くてびっくりしたんですよね。私はよく映画とかで見たシーンなので虚しくなってしまったのだけど。
でもこの芝居を見て、戦争について考える機会になって、長崎という土地で何があったか知って、さらに訪れてもらえたらそれはそれでいいのかもなあ、とか思ったり。
別に若い人に限らずなんだけど、保守でもリベラルでも色々意識高く語る人に「じゃああなたは広島、長崎、鹿児島、沖縄など行って、戦争の傷跡を見たことがあるのか」と問うたらどのくらいの人が実際に訪れたことがあるのかな。ちなみに私は前述のとこは全部行きました。って行ったからえらいわけでもないし、煽るつもりもないけど、行ってこそ知ること分かることがあるんじゃないかなあ?ないかなあ?演劇や映画だけでは分かったことにはならないんじやないかなあ。もちろん演劇で深まる事はある。そこは否定してません。
ただ演劇とか映画って「オチ」があるために、そこで終わり、区切りになって満足しちゃうきらいがある。最悪、その作品の持つ偏った視点やプロパガンダなどを鵜呑みにしてしまう。
その土地に能動的に行くことは、その時点で自分で動き考えている。そしてそれは必ずしも近づき理解をすることにはならない。さらに分からなくて、直視できない自分の小ささに絶望もすることもある。なぜなら予定調和的に導かれる「オチ」がないから。でもそれによって深まる事もある。という事もこの芝居は内包してたと思うのです。だからこそ、現地に行って見てほしい。博物館だけでなく、街の中を歩くだけでも感じるものはきっとあると思うのです。
野田さんが「劇場を出る時には世界が少しばかり違って見えるようになる」と言ったことは、現地を訪れるという行動にも当てはまるのではと思うのです。
『正三角関係』の英語タイトルは「Love in Action」だそうで、言葉を駆使した野田さんの芝居とは真逆ともいえる。行動こそ愛、とはなんぞや。
ちなみにラノベ映画の舞台になったのは鹿児島でなくて、茨城県の 予科練平和記念館だそうです。広島長崎沖縄鹿児島遠いなあと思う方はどうでしょう。
もちろんそういう現地の資料館に、映画のような偏りやある特定の意図を誘う展示がないとは言えないのですが。ただ広島の平和記念資料館なんかは近年大幅に展示の仕方を変え、外国人にも分かるようになどの理解しやすさを目指しているように思えます。私は高校の時に見たかなりショッキングな展示もそれはそれで見て良かったと思ってますが。
別に意識高く持たなくて全然いいので、広島行ったらお好み焼きと牡蠣と穴子と汁なし担々麺食べて、カープの試合見に行ったりして、長崎ならカステラとちゃんぽん食べて、眼鏡橋でデートして、沖縄ならリゾートして沖縄そば食べて、鹿児島なら天文館でしろくま食べて焼酎飲んで桜島見て。あちこち観光したついでに歴史に関係した資料館などに行ってほしいな〜と、思いました、まる。