je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

さっそく読んでみた

仕事が忙しくても、本は読んでいたり。

M(エム) (文春文庫)

M(エム) (文春文庫)

映画を見て、読みたくなってさっそく。
映画のほうは短編をいろいろ組み合わせたものだった。別のものであり、しかしうまいことリンクしてる。この作品に漂う、コールタールのような薄い膜の雰囲気は変わらない。
悪意というものについて、よく考えるけれど、本当に怖いのは、意識された形のある悪意ではなく、人の心に澱のように凝った「悪意のようなもの」だと思う。それは、はっきりと見えにくいだけに、触れるのが他人も自分も恐ろしく、いつまでもそこにある。
この短編集に出てくる人々は、日常的ではないけれど、なんとなく共感できる。きっと、どの人間も何かを怖がっているからだ。段々と恐怖は日常化し、慢性的なそれは自分の中で快感にすら変わる。自分を愛するということ、人はどんな状態でもそれを実現しようとする。どんなに哀しい形でも、どんなに歪んだ想いでも。
グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

なんか、いやーな内容の本ばっかり読んでるのはわざとではない・・・はず。
最近の桐野さんの本は、これの布石となるものが多かった。おそらく、彼女が学生だった頃、私よりいくらか上の女性の世代は、ある特殊な年代であるのかもしれない。男女雇用機会均等法、一般職と総合職、そしてやってきたバブル、はじけてからの不景気、自分より下の世代の自由な(と彼女たちは思っている)女性たち。もちろん、すべてをカテゴライズするのはおかしい。働く女性で、もっと平凡に地道に生きている方がほとんどだ。
けれど、世間体というものから離れられない時、女である事から逃れられない時、自分を見失ってしまう女性は少なくはない。それが不幸だとも思わないけれど。
主人公が戦っているのは、男でも男社会でもない。表面的にはそうかもしれないが。結局は、何かに名前をつけて、そこに嵌めようとすれば、自分は形を変えざるを得ない。形を変えた自分を愛する事ができなければ、不幸になる。
できれば、愛するものだけに名前をつけたい。名前をつけるというのは、そういう行為だから。グロテスクであっても。
クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

読んだのは夏。
群馬は父の故郷で、上毛新聞も、父の実家に帰るとあったのを覚えている。日航機の墜落が、群馬の県境であったことがドラマの基盤になっている。当時は知らなかったことだ。
事故のそのこともだけれど、これは人の話なので、気持ちに沿いながら読むことができた。
私の父は、おそらく主人公が登った山に登ったことがあり、群馬の山の風景も嫌というほど知っている。そして、山男の気持ちも。
父がどんな気持ちで登るのか、決して分かる事はないと思っていた。同じ船に乗り、レースをしても、一緒に山に行っても、死と隣り合わせの場所に、家族がいながら行ける人の気持ちなど、家族としては見てみぬふりをしてしか、一緒に生活できないものだ。弟が父と同じように山に登り始めた時も、やっぱりなと思いつつ、私が理解できたのは母の心配だけであった。
この本を読んで、やっぱりな、と思いつつ、やはり見てみぬふりしかできない。理解できるなんて、言いたくはないのだ。