je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

「Defiled」@シアターコクーン(2004/11/25)

出演:長塚京三大沢たかお
演出:鈴木勝秀
翻訳:小田島恒志

所蔵リストのコンピューター化に反対して、図書館に立てこもる、元司書のハリー(大沢)と、それを止めるために説得に当たる刑事ブライアン。年令も、バックグラウンドも、そして価値観も違う二人のせめぎあい。
NY、自爆テロ...というキーワードはどうしても外せないのは仕方ないと思う。でも、私は、見ながら違うことを考えていた。
親と子、子供と大人、理想と現実。
一見、相反するもののようだけれど、親がなければ子はいない、子供は大人に育つ、理想があるから現実が生まれる。共存するのだ。少なくとも、あの真っ白な無垢の象徴の図書館で、いくつもポツポツと生まれた共存があったことは、どうしても否定できない。
ハリーの無垢な理想に相槌をうちながら、ブライアンに両親の姿を重ねた。
ハリーに職業のことを聞かれ、ブライアンは「人を救う仕事」と答えた。そして、その仕事が時には空しい結果を生む事も。私の父は「命を救う仕事」をしている。でも、命は失われる。その空しさに打ちのめされる姿を幾度も見てきた。理想が必要な中で、現実に寄り添う術を知っている。
「愛し合ってない両親」に生まれ「酒乱の父親」におびえ、「兄弟が多く愛情不足」であった子供時代を送ったブライアン。私の母方の祖父は酒乱だった。8人きょうだいでもまれて育った母に、父と結婚した理由を聞いた時「楽しくお酒を飲む人だから」と答えた。母の兄(私の伯父)は、娘が結婚する時に、相手が酒乱じゃないか確かめるために酔い潰してしまった。まあ、基準が「酒」つうのも、酒豪とあだ名された私の家系らしいけれど、結構、根が深いなと思った。
だからこそ、家族を大事にし、現実の幸せを決して離さずにいる。その姿は立派というよりは悲壮だ。
幼い頃に親に本を読んでもらった、美しい思い出のあるハリー。だからこそ無垢で傷付きやすく、清く正しい。私は、愛情をきちんと受け止めた人は、素晴らしいと思う。もちろん、それがなかった人を否定はしない。でも、愛情があるのに受け止められない人もいる。
問題は、ハリーの両親はもしかしたらブライアンのようだっただろうということだ。ハリーの不幸は、幸せすぎたことじゃないのか?
私は「愛は何か」と問われたら、理解する事と答える。100%理解できなくても、「理解しよう」と思った瞬間に、愛はある。それが希望なんだよ。それを信じないでどうする?
「なんで分かんないんだよ!」
ハリーの叫びは、愛の告白だ。童貞臭バリバリの、ともすれば身勝手な言葉だけれど、鼻白むことがないのは、嘘がなく本気だからだ。ハリーはロマンチストだけれど、決して言葉に酔ってはいない。
ブライアンもハリーも、ひとつだけ共通することがある。それは傷付く事を知ってる事だ。傷付いた事のない人間は、人を平気で傷つける。
ハリーはブライアンの考えに寄り添えなかったけれど、あのラストはブライアンへの思いやりも含まれてる。ハリーは、ブライアンを理解した、だから一緒に「連れて行く」ことはできなかった。
ブライアンもきっと傷を負って生きていく。それはハリーを理解した部分があるからじゃないのか?
二人とも傷付いた。でも、傷付く覚悟も、傷つける覚悟もあった。それは、そこらの半端童貞君とは違うんじゃないか?
ラストで、私は泣いてしまった。滑稽なラストにも関わらず。
もし、これが、人の精神の中のせめぎあい...ということであれば、人はこれをくり返しくり返し生きている。汚されても、再生して...また汚されて。