こんな世界になる前に、最後に映画館で見た映画。
この映画の感想を書けなかったのは、日々の生活を整えるための忙しさはもちろんだが、日が経つにつれてこの映画がしみじみ深い思いやメッセージに変わりつつあるのを実感したから。
あらすじは、最後の戯曲となった『ヘンリー8世』の上演中にグローブ座が全焼、落胆したシェイクスピアは断筆。失意の中、故郷のストラットフォード・アポン・エイボンの家族のもとに戻ってからのお話。
帰ってみたら20年以上も離れてた家族とは心の距離があったり、幼く亡くなった息子を悼んで庭園で花を育ててみたり、地元の名士にはいじめられるし、訪ねてきた昔のパトロンには冷たくされる。セカンドライフをどうにか充実させようとするよくいるおじさんのあれやこれや。
しかしこの話、あくまでシェイクスピアオタクのケネス・ブラナー監督(はじめ制作の方々)が残った文献や研究から、いい感じにふくらませたフィクションなのです。
出てる演者もシェイクスピア作品にガンガン出てる俳優さんばかり。
奥さん役のジュディ・デンチに至ってはケネス・ブラナーからの「頼みがあるんだけど車で家に行っていいかな?」という連絡に「ガソリンの無駄使いはやめて、出演するわ」って即答したエピソードは最高すぎる。
イアン・マッケランのサウサンプトン伯爵とシェイクスピアのシーンは垂涎もの。
そう、二次創作だけど、ガチのオタクが歴史研究からの史実もがっつりおさえてプロの役者で作った作品。フィクションとしてのエンタメ性もある。そこに意義があるし面白い。
映像も室内でのろうそくや暖炉の明かりだけとか、太陽の日差しなど美しい。庭の大きな木を中心にしたまるで舞台装置のような写し方や、地面と平行に引きで映したり、下からあおりで撮ったり、舞台鑑賞をしてるような感覚もあった。これについては言及してるとこが見つからなかったけど、ケネス・ブラナーの撮影の特徴なのかな?このシーンは最前列、これは後列からかなとか思いながら見てたけど。
実際になぜシェイクスピアが断筆したのか、ほんとに劇場の全焼がショックだったのかは分からない。家族の話も実際どのような感じだったのか。誰にも分からないのである。
私は随分前に、コッツウォルズに行った事があり、シェイクスピアの故郷も通りがかりに見た。本当に素朴なイギリスの田舎町、という印象だった。老後を過ごすにはいいのかなとは思う。
だけれど、演劇で一時代を築き、疫病で劇場封鎖になっても諦めず、イギリスで王様の次に偉いと言われた人が何を考えていたかなんて本当に誰にも分からない。
映画の中で地元の政治家サー・トマス・ルーシーにいつも育ちなんかで嫌味を言われ続けたシェイクスピアが彼にやっと反論したシーンは、今の世界にとても突き刺さるものだった(うろ覚えなのでなんとなくでご容赦ください)
「疫病で劇場封鎖したり色々あったけど、俺は一人で劇団を支えてきたんだ!お前にできるか!芸術や演劇のない世界なんて無意味なんだよ!お前みたいにな!」
これは映画のセリフで、こんなことをシェイクスピアが考えてたどうかは分からない。
今の世界に沙翁がいたらなんて言うだろう。私たちは自分で探して自分で考えないといけない。
文化や演劇や映画や美術やあらゆる文化的なものがこの世からなくならないために。沙翁が残してくれたたくさんのものたちが、まだ心の中に息づいているのを忘れないでいようと思う。