je suis dans la vie

ライブとか映画とか芝居とか。ネタバレ有り〼。

『マティアス&マキシム』(ネタバレあり&北米の秋についてなど)

グザヴィエ・ドランの新作。待ってました〜。

ネタバレあります。

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(あらすじ)

30才のマティアスとマキシムは幼い頃からの親友。ある時、友人の妹の自主制作映画に出る羽目になり、2人はキスシーンを演じる事に。そこから何かが変化して、2人は意識しあってしまう。マキシムはもうすぐオーストラリアに行くことになっており、限られた時間の中、2人はおさえてもあふれてくる感情に動揺する。

 

とにかく映像がほんとに好きなのです。

アップが多くて、フォーカスが極端な独特の写し方は否が応でも人物の内面にかぶりつくような親近感が出る。ひたすらに感情的、抒情的、ロマンティック。

今回は主演もドランで、撮影も彼のパートナーのアンドレ・テュルパン、出演者もほぼドランの仲間で、撮影場所もドランのホームベースのケベックと、まるでプライベートフィルムを見ているよう。

そういう距離感の近さが私は好きなんだけど、初めて見る人はどう感じるかな?というのも気になり。でもそこも含めてどう受け取られてもよいというかのようで、ドランはいつも自由な魂で表現して心地よい。

例えば、マティアスは自身のセクシュアリティの揺れに終始戸惑い続けるけど、マキシムは自分の気持ちについてはわりと自己完結してる流れ。おそらくマキシムは(女の子といちゃついたりはしてるけど)ある程度マティアスへの気持ちはずっと持っていたのかな?と思うけど、個々のセクシュアリティについてはあまり説明しない。ドラン自身がオープンリーゲイなのを知っていたら不自然ではないけど、初めて見る人は、単純に男同士だから動揺してるのねと思うかもしれない。

そして、マティアスが動揺してるのはそこだけではない。ドランはあえて2人のセクシュアリティをはっきりとは言明しないことで、2人の関係が性別だけではなく、深いところでつながった2人が「恋」というターンに入ったらどうなるかというテーマを自分なりに表現している。よくありそうな物語を、初めて見るかのような体験に変える。

マキシムの顔のあざについても、ほとんど言及されない。バスの中の視線と、台詞、マキシムが鏡を見た時くらいか。友達といる時、誰もマキシムのあざをまったく気にしていない。説明はない。でも彼の傷の一つであるというのはさりげなく分かる。

マキシムは低所得者層の地域に住んでて、母親が問題を抱えてるが、マティアスは育ちの良さそうなお坊ちゃんだったりも小出しに少しずつ示す。環境が真逆らしい2人がどうやって知り合ったとか、なぜ仲良しなのかもあまり語らない。

ケベックがフランス語圏でカナダでも特殊なこととか、なぜマキシムが英語がてきないのにオーストラリアに行くのかとかもあまり語られない。

あくまで映画はラブストーリーで、2人の心の交錯を描く。

だけど深く語られない設定や表現が、2人の関係性に深く関わってて、後からじわじわきた。見ている間は、2人の気持ちの揺れについていくのがやっとだったのだと後で気づく。

マキシムがあざのコンプレックスや、家庭の問題などを抱えててもその苦しみをあまり周りに示さないのは、多分マティアスが幼い頃からそばにいたからだ。育ちがよく、面倒見の良いママンに育てられ、父親は離婚後離れたけど就職やらサポートしてくれるし、余裕ある環境にいるマティアスは本人も意識ない部分でマキシムを支え続けてきたんだと思う。同情とかがあった時期もあるだろうけど、マティアスは育ちが良すぎて性格良すぎてそういうのも感じさせないタイプなんだと思う。マキシム自身も大変な環境でも心優しい人ではあるので、お互いにずっとその優しさを守りあっていたんだと分かる。呼応しあってる。

ラストはえっ、と一瞬思ったんだけど、後でじっくり考えるとこれしかない。同性だからとかでなくて、異性だとしても、もし本当に人生に大切な人なら失いたくないとするなら、物語としてはこれがベスト。現実はこんなにうまくいかないかもだけど。

 

今回の舞台の秋のケベックは、とてもミシガンの秋に似てて思い出してしまった。

私は小学校の時にミシガンに住んでて、カナダは近くてしょっちゅう行った。父親のパスポートが北米オンリーだったせいもあるけど、車でトンネルくぐればそこはもうカナダ〜!なとこだったので。

ケベックは冬まつりに行った覚えがあり、雪の彫像とか初めて見たので今でもよく覚えてる。まつ毛が凍るくらい寒かったことも。

でも秋に行ったことはなかった。

学校があったからだけど、ミシガンは冬が長いからか、秋の紅葉がとても綺麗で。秋の景色はミシガンの真っ赤な紅葉の思い出ばかり。家の前につもりに積もった赤い葉っぱの絨毯をガサガサと歩くのが好きだった。

冬が来る前のお楽しみだった。

映画でも、冒頭に出てくる紅葉や、緑が多い中落ちてくる落ち葉が、すぐにやって来る冬を暗示してる。(秋は30歳という設定の、青春の終わりを表しているのもあるかもしれない。)

ドランの映像になんで惹かれるのか、今回分かった。ケベックもミシガンも冬が長くて寒い。春は冬の終わりなだけだし、夏は過ごしやすくていいけど緑が多いだけだ。そのかわり秋にはたくさんの色がある。

ものすごく昔の思い出で、でもずっと忘れてなかった景色がドランの映画にあったんだなーと、移動できない今だから気づいたのかも。

『パブリック 図書館の奇跡』@横浜ジャック&ベティ

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見たのは9/29(火)。思い出し感想です。ネタバレあり。

 

アメリカのシンシナティの図書館で働くスチュアート(エミリオ・エステベス)は、毎日利用者の面倒な対応に追われている。ある時大寒波が押し寄せ、行き場のなくなったホームレス達が図書館に集まり立て篭もる…というのが大筋。

 

図書館は本を借りるだけにあらず。寒い冬には開館から閉館まで過ごすホームレスたち、ネットを利用する失業者、行き場のない人々のセーフティネットであったり、居場所であったりする。日本でも最近は新しい宮下公園(ミヤシタパークとか名前変えてなんやねん)の変貌や、災害時の避難所でのホームレスへの対応が問題になったりアメリカだけの話ではない。

 

スチュアートが「図書館に救われた」というバックグラウンドが少しずつ明かされ、物語に絡まっていくのも面白い。

最初の方で、ホームレスの常連グループがいつものように図書館のトイレで洗顔や歯磨きをしていると、スチュアートが様子を見にくる。彼らの窮乏を聞いて思わず中の1人に金を渡すが、うまくシニカルな笑いでいなされる。

ここはすごく偽善的なシーンになっており、スチュアートが浅はかなように見えるが、実はスチュアートは以前ホームレスで彼らと同じ立場だったからどうしても見過ごせないというのが徐々に明かされる。

スチュアートはホームレスだった頃に飲酒や暴力の問題を抱えていたが、図書館に通ううち本を読み勉強し、館長の助けもあり、資格を取って図書館で働くようになっていたのだ。

だから彼らに共感して、成り行きとはいえ図書館の篭城を手助けすることになる。しかしそこをよくある正義漢のヒーローに描かず、スチュアートの不器用さや葛藤こそがエミリオ・エステベスの描きたい部分なんだろうなと思うし、すごく彼らしい。主演だけどあくまで伝えたいテーマがあって、役者の自分はそのツールなんだなと。

他にもそんなシーンがあるのだが、アレック・ボールドウィン演じる刑事・ビルの息子とのくだりは難しいけど描き切った好きなシーンだ。

ビルの息子は精神疾患を抱えたホームレスで、図書館にいた。スチュアートは彼にシンパシーを感じて「俺も君と同じだったが立ち直った」的な話をし始める。この辺も痛々しい感じの演技がうまい。普通の映画ならそこで2人が心を通わせたり、父親との再会とか絡ませるんだろうけど、スチュアートは刑事の息子にドカンと一発パンチをくらいぶっ飛ばされる(文字通り吹っ飛ぶ)。その上スチュアートは刑事に「お前のやってるのは偽善だ」と説教される。

とはいえちゃんとカタルシスもあるし、スチュアートのやってるのは決して独りよがりではないシナリオにはなっている。

ほんとにあったんじゃないのって感じの話だけど、あんまりリアルに寄りすぎないようにしてるのかなというシーンも多い。女性キャラがありきたりで、あまり出てこないのは予算的なこととか設定で省くしかなかったのかなとも思う。ラブシーンがちょっとあるけど、映画なのでこういうシーンも必要だよね〜って付け足しっぽい。

リアルに寄ってドキュメント風にすると分かりにくい、予算が取りにくいとか、監督の思惑があったのか、もしくは単にそこまで考えが及ばなかったのかはたまた好みなのか、分かりませんが。もう少し踏み込んでも良いかなとも。


図書館という場所を舞台にした物語としては本当に共感しかなかった。自分も学生時代は区や学校の図書館を逃げ場としていたし、本から何かを受け取って救われたり知識となったりした事が多く、色々思い出してスチュアートの気持ちが分かる部分が多かったな〜。もちろん本を読まない人もいるし、それ以外の事で救われる人もいるだろうけど。私は運動できない期間があったので、本を読むしかなかったんだけど。

 

スチュアートの敵役的なポジションで、クリスチャン・スレーターが出てきて胸熱(その昔、『ヤングガン』という青春西部劇映画がありまして。例えるならアイドルが時代劇でてる的な)。クリスチャンもあまりスクリーンで見られなくなってて、久々に見たらエミリオと共演か〜!って嬉しすぎ。

クリスチャンは市長候補の検事役で、いけすかないキャラ。クセの強い感じがやはりハマる。最初髪の毛整えて知的な感じかと思えば、裏で悪態つく時はあの釣り上がった眉と同時にできるM字の生え際〜(分かる人に伝われ)。最後の「どうせ俺が悪役なんだろ」ってセリフがいい〜。エミリオありがとう〜。

 

  • 追記

初めてジャック&ベティ行ったけど、古き良きミニシアターって感じですごく居心地よかった〜。今は席もオンライン販売。現場の感染対策もばっちり。お客さんも静かにマナーよく楽しんでた。

上映前に近所「まめや」でコーヒーを。

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帰りは近所のパン屋さん「カメヤ」に寄って塩バターロールを買ったのですが、シンプルなのにすっごいあとひくおいしさでした!

 

 

『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』

7月14日に映画館で久しぶりに鑑賞。109シネマズのエグゼクティブシートも一つ置きの座席指定なのでとても良い👍。

近年の映画鑑賞で、特にシネコン系の客のマナーの悪さにブーブー🐷言ってた私としては、この件のみは嬉しい限りです。

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ものすごーーーーーくだっっっさい邦題だな。原題は普通に "Little Women" なのに。ここでベタに「若草物語」とすると、過去の映像化との差別化ができないという事だとは思う。見た後に邦題の意図は分かるんだけど、それにしても長すぎだし、だったら全部日本語の題にした方がいいのでは。

下記ネタバレありの感想。

原作の話そのままで、話の流れには特に大きな改変はない。お父さんが帰ってくるクリスマスまでのいわゆる子供時代の若草物語(1)と、ジョーがNYに行く続編(2)。

今作は時間軸は続編(2)から始まり、ジョーがNYの出版社に原稿を持ち込むところから。面白いのは、(2)の時間軸で進みながら、(1)のエピソードを重ねていく。その重ね方がジョーが思い返していく方式なのだが、(2)で起きる出来事に似た出来事として(1)の出来事を描写する。特にわかりやすいのが、ベスが亡くなるところで、病気のベスを看病するジョー→朝起きたらベスがいない。(1)では食卓で元気になったベスが朝食を食べている、が(2)ではベスは食卓にはおらず、母親が死を告げる。(1)は(2)の時間軸にいるジョーが見ている夢であった、という構成だ。一連のシークエンスがとにかく素晴らしく、ローリーの告白タイムを凌ぐクライマックスシーンであった。

個人的な話だけれど、実家の猫が亡くなった後だったので、ベスの弱っていく姿が実家の猫の最後の姿に重なってしまい、構成の素晴らしさに感動しつつ、わーんベス死なないでーーー!とありえないほど号泣。猫と一緒にするのも理解しがたいかと思いますが、25年も生きてたのでほぼ実家の末娘感がありまして。そういう意味では性格はどちらかというとエイミーだったなあ。私と性格が似てて仲が悪いとこも含めてエイミーな猫だったな…(すみません、当方売ってる猫缶見ても泣くくらい落ち込んでる時だったので)。

今回、その構成も素晴らしいが、何より新しいのは女性の描き方。

子供の頃に若草物語を読んだ人はあるあるだと思うのだけれど、結構ジョーに自分を重ねた人も多いのでは。自分のやりたい事をやって、男勝りで自分らしく生きるジョー。もちろん今作でもシァーシャ・ローナンはこれぞジョーという演技。その対極で家庭的なメグ、大人しいベス、わがままなエイミーがいて、引き立て役な感があるのが今までの印象。

今回は四姉妹のみならず母親の生き方にも丁寧に描写があり、この時代に女性はジェンダーに縛られつつも個々のありようがあったのだと示す。メグは家庭におさまるけれど、自分でそれを選んでいる事、選んだ後の葛藤もありつつ、その葛藤も自分の選択の上だと確認する。これまでだと専業主婦の生き方はフェミニズム運動の中でマイナスとして取り上げられる事も多かったのではと思うが、きちんとメグにそうではないと言わせているのも好感がもてる。ベスについても、ただ体の弱い悲劇のヒロインとしてではなく、ジョーや家族の精神的な支柱であり強い生き方を貫いた人間としての側面を。エイミーについては特に描写が丁寧で、今までは悪役感あったところを、ジョーとの対立やローリーとの関係性も腑に落ちる描き方。彼女の生き方がジョーに反映してはいるが、決してジョーの影であったり身代わりという意味ではない。どの生き方を選ぶか、自分らしさとは、4人姉妹は意識せずともしっかりと選び歩いている。

結婚する人もしない人も、仕事をしてる人もそうでない人も、どんな境遇の人もその事で他人と比べられたり強制させられたりはまったくもって時代遅れなのだと、古典からこのような表現が生まれるのは眼から鱗であった。

ところで、もう1人のシスター・ローリーについても新しい発見が。「何故ローリーはジョーに振られたのか問題」について、今作ははっきり分かりやすくは提示してないが、ほんのりとなるほどなーと思わせる。

ジョーがメグの結婚に対し異様な拒否感を示すさまは、男嫌いや家父長制への拒否感もあるだろうが、「姉妹に対しての同性愛的執着」もあるのではと。明言はないが、ジョーのセクシュアリティがビアン(もしくは他のセクシュアリティ)ならローリーに対しての「どうしてもダメ」は性的に無理なのだとすれば理屈が通る。しかし原作ではジョーは男性と結婚しており、結局道理が通らないからナシなのではある。ただ今作はラストがメタフィクション的オチなので、この解釈もあり、となんとなく示唆している。

ローリーといえばティモシー・シャラメのローリーはちゃんとナイスかませ犬!だった。でもシャラメが演じることで、崩れても品がある。告白シーンは手も握らないけど、物語の中で一番のラブシーン。

そしてシャラメが一番はかなげで、ヒロイン感ありまくりだった。四姉妹の方が男前でたくましい。シァーシャ・ローナンが特に少年的な雰囲気で、顔立ちもどことなく骨格が賀来賢人くんに似てて(予告の『今日から俺は‼︎』見たせいもあるけど)、美形だけど女性的な感じがあまりなかったため、シャラメの可憐さが際立った。ローリーが屋根裏での姉妹の仲間に入れてもらう時に、誰よりもブラウスが似合ってたあたりなど、意図的にそうしてる気もした。

他の男性キャラについては描写が少なめである中、ローリーは殊のほか特別な存在として描かれており、ビジュアル的にもシャラメありきだったのだと思う。

 

ところでここからまたまた余談になります。

私の中で「かませ犬ベスト3」は

である。

つまるところ、ヒロインがなぜ「器量よし、性格も良し、親の印象も良さそうな彼氏」キャラではなく、ちょっと他とは違う価値観で男性を選ぶのか問題。これ、言語化するのはなかなか難しい部分がある。というのも、分かる人は分かるよね、な部分が大きい気もするのだ。

ちなみに似たような例として、『キャンディキャンディ』におけるテリーは「男の子って少し悪い方がいいの(byキョンキョン)」であり、あれは少女漫画王道中の王道シチュで、女子のイニシエーション的な面もあるのでこれとは違う事を念頭に置いて欲しい。だいたいキャンディは最後に不良のテリーではなく「丘の上の王子様」と結ばれる。

南ちゃんがなぜ「カッちゃんではなくタッちゃんを選ぶ」のか、男性読者は本当に本当に分かっているのだろうか。ダメ男子(もしくはモブ的普通男子、非モテキャラとか)にヒロインが惚れる事で、読者の共感を呼ぶとかそんな簡単な話ではない。反して女性はけっこう納得していると思う。

簡単に言うとカッちゃんと付き合っても面白くないのである。わりと底が見えるキャラで、本人もそこは自覚している。だから甲子園に行って南ちゃんの気持ちをつなぎ止めようとしているヘタレ野郎である(死者に鞭打つ気はありません、念のため)。

カッちゃんが生きてたとして、南ちゃんが新体操の才能があっても「南がやりたいことをすればいい」と理解を示しつつ、マネージャーとの両立ができることを暗に望んでいそうだ。しかし、タッちゃんは憎まれ口を叩き、わざと南ちゃんを枠にはめないようにして、マネージャー業から遠ざけるような素振りすらある。

私が一番好きなエピソードは、料理の下手な新米マネージャーに、南ちゃんの得意料理をさりげなく伝授するところだ。この時、その経緯にプンプンする南ちゃんに言うセリフがタッちゃんのキャラを集約している。

ケチケチすんなよ。
ひとつくらい得意なモノが減ったって、南の凄さはかわらねえよ。

これ、名セリフとされてる「上杉達也は朝倉南を〜」よりよほどすごいアイラブユーだと思う。しかも新米マネージャーのプライドも傷つけず、チームの士気も高めるというグッジョブ。

南ちゃんは「他には分かりにくいけど私には分かる良さ」で選んでるとも言えるが、そもそもタッちゃんはできる男なのだ。タッちゃんは南ちゃんの幸せのためならなんでもする気概があるのは最初から変わらない。

ローリーがなぜ振られたか問題については、先に書いたようにセクシュアリティ問題が隠れているかもなのだが、ローリーがもうちょっとジョーより大人で人格者で、もしくはタッチの和也のような狡猾さ(甲子園に行く)でもあれば違ったのかなとも思う。

もう1人のかませ犬「冒険者たち」のアラン・ドロンですが、ほぼタッチと似た感じなので割愛。リノ・バンチュラめっちゃかっこいいのでおすすめです。

『プレイタイム』(シアターコクーン、2020.07.12)

7月12日の公演の日に、上演後に配信観劇。

ストリーミング鑑賞チケットは当日までの販売でしたが、好評だったためオンデマンド配信しています。

↓9月2日まで。

見る際はお部屋の明かりを消してぜひ。

 

構成・演出:梅田哲也、演出・美術:杉原邦生というダブル演出。杉原さんの演出は初見、お友達が好きな演出家なので気になってたがやっと見られた。杉原初心者には良い入り口かな?

どこからどこまで梅田さんで、杉原さんなのか分からなかったけど、それもまたよし。映像構成の部分は梅田さん、舞台セットなんかは杉原さんかな?

岸田國士『恋愛恐怖病』などをベースにした、逃げれば追う追えば逃げるという男女のやりとりがメイン。現在のコロナ禍で、役者同士も触れ合うことを制限される中では、この題材はぴったり。吊り橋のようなセットに揺れる2人、敷き詰められた大きな布が波のように揺らめき。しなやかな森山未来さんの動きがシンクロする。ストーリーがあるようなないような。

今回の配信は「新しい演劇のアプローチ」という観点でありつつ、その場限りではない可能性をも提示した成功例になるかと思う。実験的ではあるが完成度が高い。今後同じような形で上演・配信していくことの意義も見出せるのではと。

というのも色々配信を見てきて、やはりライブには敵わないというのは言わずもがなである。そこをどうしても割り切れない層も多くいるし、見られるならなんでもと割り切って見たとしてもなんかしら足りない部分を感じる。理由の大半は生で見るリアリティの有無なわけだが、ざっくり言えば2次元と3次元の差、立体感のなさが大きい。そこの部分を今回はかなり解消している。

ナショナルシアターなどはNTLのために映像化に慣れているので、技術が長けているが、舞台を映像化するのは技術的な面で難しい。撮る側の技量もだし、そのための機材への投資も。

今回はただ舞台をストリーミングするのでなく、映像作品としてのクオリティも高い。その中で森山未来さんと黒木華さんという、舞台でも映像でも映える役者をキャスティングしたのもとても良かった。2人とも舞台であることと、カメラに映ることのバランスが取れていたのではと思う。もちろん演出の妙もある。一回限りの公演であるという緊張感も功を奏している。

配信観劇の良いところは、今まで様々な理由(遠方に住んでいるとか、家庭の事情や身体的理由など)でライブの演劇を体験できない人たちへ届ける機会ができたということだ。配信はあくまでその場しのぎ、なんてことではなく、前向きに早い段階で新しいアプローチをしたことは本当に素晴らしい。もちろん軽々しくは言えないけれど、文化芸術はこういう時に飛躍する可能性も大きい。落ち込むことも多いけれど、とてもとてもすくいあげられた気持ちになった。

 

配信観劇その28『ジョン王(King John)』(ストラトフォードフェスティバル)

ストラトフォードフェスの配信。配信はすでに終了しており、思い出し感想です。

これ翻訳読んだんだけど、あんまり惹かれるとこがなくて。多分、タイトルロールのジョン王があんまり魅力的ではないんですよね…。

ジョン王 (白水Uブックス (13))

ジョン王 (白水Uブックス (13))

 

そもそも兄のリチャード一世が亡くなり、正統な王位継承者のアーサーが幼いから、どさくさまぎれに王様になった人で。摂政みたいな感じでいればいいのに、欲張って王位に執着するから、余計に器の小ささや王位に相応しくないのが丸わかりなキャラクター。読んでる間は、前王の落とし胤フィリップとか腹心のヒューバートの存在が面白かったので、なんでタイトルが「ジョン王」なのかなあ、と。まあその辺は私の読み取りが足りないのもあるんですが。

今回の演出ではジョン王が「愚王」で、ギャグぎりぎりな、ともすればバカ殿っぽい。あーこういう風に見せると面白いんだなーという演出でなかなか楽しめました。

例えばアーサー暗殺をヒューバートに命じたのに、政局が変わってやっぱり暗殺しない方がよかったと思いヒューバートをなじるとことか理不尽な言い草なんだけど。

「なんで俺が言ったからって、ほいほい暗殺しちゃうんだよ〜!そこは空気読んで?分かるよね?ヤバイからやめましょうよ〜ってあの時俺のこと止めてくれたらよかったのに〜!」

って体プルプル痙攣までする。お前が言うたんやないかーい!ってハリセンでツッコミたい。こんな上司いたら最悪。てか結構いるけど。

でもヒューバートが「実は殺してませーん!」って言ったら「それホンマかー!」ってガバッと立ち直る。

シラーの『メアリ・スチュアート』でエリザベスがメアリの処刑でごちゃごちゃ言う下りなんかは割とドラマチックなんだけど、ジョン王はとにかく浅はか。そこを裸の王様のごとくアホに見せる。

そこをギャグだけにしないのは、ヒューバートやフィリップの忠誠、息子の愛情などを見せて、王が王たる所以は崩さない。ジョン王がずっと大きな王冠をかぶって、派手なマントを羽織っているのもおかしくも物悲しい。悲劇と喜劇が背中合わせなうまい見せ方。

舞台は長方形の平土間。セットは椅子とかくらいでシンプル。客席に降りる小さな階段を少し使う。フィリップの1人語りの時は客いじりも。奥に二階があり、場面転換でうまく使う感じ。ここの使い方でうまいのはアーサーの死ぬところ。飛び降りなので、どうやって表現するのかな?と気になっていたが、落ちたアーサーがジョン王のマントの下から出てくるのも効果的。殺したのはジョン王、という直接的な意味も。

ジョン王を見ながら思い出したのは、どこぞの国の政治家ではなく、ジョン王って野球チームの監督みたいだな〜、と。(注:以下カープファンの独り言と思って読み流してください。)というのもカープが監督変わってからちょっと(いやかなり)不調でしてね…。まあ細かいこというと監督のせいだけではないんですけど。どんなに国(チーム)に実績があって部下(選手やコーチ)は優秀で、突然出てきた前王の落とし胤(今年やっと覚醒した堂林選手)が活躍しても、王様(監督)の采配が噛み合わないとダメなのかしらという時があり。そして敵国の王(GのH監督)の狡猾な采配にのまれてしまう予感すらあり…。

なーんて王様と野球の監督では立場がそもそも違いますけどね。監督は雇われですし。

でも、ジョン王以外の王様だって周りに盛り立ててもらったり、優秀な部下や妻のおかげだったりするのも多いし。実質自分は何もしなくてもなんとかなってる場合もあったりするし。彼はなぜここまで愚王なのか。結局、ジョン王はいらぬ欲目を出した時点で王の器ではなかったのだなー。

まあカープの監督だけがジョン王じゃないですけどね。日ハムの栗山監督なんかはわりと弁えて成功した場合のジョン王な感じ。次のスター監督(正統な王位継承者)までのつなぎっぽさもありつつも、たまに優勝したりそつなくこなし、オーナー(王族のプレッシャー?)とファン(民衆)の信頼のバランスも取る優秀な監督(王様)感がある。オリとか阪神の監督なんか常にジョン王感あるし(権威にも民衆の期待にも負けて自滅していく感じが)。あ、これもしかしたら色んなスポーツの監督でもいけそうな感じ?ちなみにGのH監督(何故伏せ字…)はヘンリー8世感があります。

 

さい芸のジョン王は残念ながら公演中止となってしまいましたが、フィリップ役は久しぶりにさい芸シェイクスピアに戻ってきた小栗旬、ジョン王は横田栄治さん、敵国のフランス王は吉田さんと、これまた違った演出になりそうな配役。なんとか同じキャスティングで実現してほしいところです。

配信観劇その27 “Les Blancs” (ナショナルシアター、2016年)

ナショナルシアターの配信。9日まででした。

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1950年代に戯曲作家として若くしてブロードウェイデビューし、夭折した黒人女性ロレイン・ハンズベリーの遺作。

(あらすじ)

舞台は植民地時代のアフリカのある村。

ミッションと呼ばれる宗教・医療施設にチャーリー・モリスというアメリカ人ジャーナリストが取材にやってくる。

施設には若い女性医師ゴッターリング、老医師デコーヴェン、ノルウェー人のニールセン牧師とその妻ニールセン夫人の白人4人がいる。ゴッターリング医師以外は40年ほどアフリカに住んでいる。彼らは現地の人々に布教し、治療を施し、彼らに馴染んでいるようだ。

同じく長くアフリカに住むライス少佐は差別的な言葉を吐き、現地のテロリストを捕まえては処刑している。

そこへ元村民のチェンべ・マトセが父の葬儀のために帰国する。彼はイギリスに住み、実業家となり白人の妻と子供がいる。聖職者となった兄アビオセ、異父兄弟のエリック、親戚のピーターらと久しぶりに会うチェンべは懐かしむよりも周りと自分の変化に葛藤する。

そんな中、独立運動家クマロがライス少佐に処刑され、現地の革命軍の活動が活発化していく。

"Les Blancs" は「白人」の意(lesは複数形、blanc は白)。1959年のジャン・ジュネの戯曲"Les Negres (The Blacks)" を見たハンズベリーがecho reference(否定的反響?反証?)として書いた作品。ジャン・ジュネの描く白人フランス人のよくあるエキゾチック趣味なコロニアリズム植民地主義)表現に納得いかず、リアルな表現を描きたかったそう。彼女は1965年にすい臓がんで亡くなり、本作は1970年に上演されている。

かなり重いテーマであり、複雑な話である。ショッキングなラストも決してすっきり理解できるものではなかった。

主人公チェンべの葛藤の物語でもあり、彼が言葉を交わす人物たちとのセリフが物語をつなぐ。モリスとの会話は特に目立つ。モリスはミッションの意義や、辺境のアフリカの人々の苦悩と共に生きる白人のストーリーを取材したいと思っており、それは分かりやすく滑稽なほどに表面的だ。チェンべは彼のその浅はかさを嫌悪し指摘する。お前たち白人の苦悩とアフリカの苦悩は違う、と。

"at Africa's expense, as always" (いつもアフリカの犠牲の上に成り立っている)

と白人の優越感を満たすためだけの偽善、欺瞞を責める。

最後モリスが帰国する時は「この事実を書けばいい」とたきつけ、

"Your moral obligation to humanity is being fulfilled" (それでお前の人間性への道義的責任は果たされるんだろう?)

と最後までかなり辛辣だ。

しかしその言葉も、白人社会に住み、すでにそちら側にいるチェンべ自身へ向かうのかとも思わせる。

序盤中盤のモリスのいかにもアメリカ人的な発言、ゴッターリング医師の一見耳障りのよい志など、だんだんと後半の謎解きに響いていく。

カソリックの僧となった兄アビオセとの価値観の相違、白人とのハーフの弟エリックへの戸惑いと憐憫の情、信じていた父と親代わりのピーターがテロリストグループであったことのショック。チェンべは祖国アフリカで起こりつつあることに巻き込まれていく。

「アフリカはずっと懇願してきたのに、無視していたのは白人だ。俺たちが武器を取って白人はやっと目を向けた」というピーターたち。そんなピーターらの暴力による革命を止めようとするチェンべ。しかし白人寄りの思想の兄アビオセにも彼は納得できず、葛藤し続ける。

アフリカ現地民側のエピソードも善としてだけ描いているわけではない。そこに主人公の葛藤を描くのは現代に通じるものもあるかもしれない。

自分たち兄弟を「子供たち」と可愛がってくれ、亡くなった母の親友であったニールセン夫人の言葉ですら、最後には虚しく聞こえる。

チェンべにはいつも幽霊のような「女」が見えており、芝居の時々に現れる。背の高い、現地の民族的な装いで黙って歩いている。

これはアフリカという植民地のメタファー、もしくは「白人(男)」に凌辱された「アフリカ(女)」という擬人化でもあるのではと思った。

(というのはこれはネタバレだが、弟エリックの父親はライス少佐で、チェンべの母をレイプして生まれたのがエリックだ。母親はエリックを生んで亡くなっている。)

とはいえ、「女」はチェンべの母の幽霊というよりは、チェンべのどうしても消えないアフリカのアイデンティティのような存在である。

チェンべの家族の秘密だけでなく、実はミッションも長きに渡って存在しながら現地民と真に交わる事はなかった。なのにライス少佐もニールセン夫人も「アフリカは私の国」だと言う。

チェンべの葛藤はそのまま残り、彼の最後の決断はただただ恐ろしい。

書かれたのが公民権運動の頃とか、作者の死後に元夫によって編著されたとかを聞くと、表現に偏りがあるのではと思う部分もある。白人の描き方が多少ステレオタイプな面も少し気になる。作者はアメリカ生まれで、祖母らにアフリカの話を聞いていたらしいので、どのようにこの物語の取材をしたのか、端的に受け止めるには難しい。現代の目線を加えた演出もほしい。

だが、この時代の黒人側の白人への印象はこういうものがあったのだと、今のアメリカにおける価値観と並べて考えると、それほど古いともいえないのではないか。

実際に被害を受けた当事者と、それを助けようとか代弁しようとかいう人間との溝、というテーマの表現としてはよくできていたと思う。

演劇に限らず、当事者でない人が何かを語るなんて事は本当に慎重にしなければいけないというのは、このところずっと思っていて、いろいろグサグサ刺さる話でした。うーん難しい。

配信観劇その26『ハムレット(Hamlet)』(Stratford Festival, 2015)

ストラトフォード・フェスの配信。今回はハムレット。(配信は終了、オンデマンドあり)

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今は『ジョン王』配信中。こちらは7月9日まで。ストラトフォード・フェスは8月くらいまで配信あります。

ストラトフォード・フェスのシェイクスピアは全体的に戯曲に忠実で、大きな改編もなく安心して見られる。そのかわり解釈の深さが感じられるものが多く、ある程度はシェイクスピアを知らないと難しい部分も。勉強になります。

その中でも、ド定番のハムレット。俳優の演技が台詞回し、所作、すべて隙がなくしっかりした演出。内容が入っていれば英語にもついていけるし、集中して見られる完成度の高さ。

衣装は近現代的。女性は華やかなドレスを着ているのもあるが、男性は普段はスーツ。公式行事っぽいとこだけ軍服。

全体的にこの衣装のつくりがかなり仕立てが良い。ストラトフォード・フェスはいつも衣装のレベルが高いと思う(とりあえず配信7本見た限りだが)。ハムレットでは照明が全体的に暗めなのに、男性はモノトーンの色味の衣装でライティングが難しい配色。そこを白黒だけでなくグレー、同じ黒でも濃淡や素材感で照明に映えるようにしている。

特にハムレットは全身黒で、シャツ、パンツ、ブーツなど素材感を変えてるし、俳優のがっしりした体格からできるしわの光の当たり方まで計算されているかのようだ。特に上着がこってるなと思った。これはプールポワンという14世紀から17世紀の上衣を基としているようだ。プールポワンは鎧の下に着るもので防寒と防護服だったらしい。ともすると現代ならフリースかダウンのように見えてしまうが、素材感も光沢が綺麗だし、体のラインが綺麗に見えるように仕立ててある。黒系の服の良し悪しはとにもかくにも素材感(安物はより安く、高いものはそれなりに見える)なので、舞台衣装でこれをやってるのはすごい。

最近だと日本の森新太郎演出の「メアリ・スチュアート」も、照明が暗めでメアリの衣装が黒、男性らもグレー系で衣装にこだわってるなと思った。

照明が暗めで見にくいところも多いのだが、その分俳優の演技が引き立つのはメリット。ハムレットの独白もビシッと決まる。

ハムレットは真面目に暗く悩み苦しむのだが、狂うフリのところも真面目な演技なので奇抜すぎず、見ている側がハムレットとずっと同じ距離を持って見ていられた。

そのかわりオフィーリアの狂うシーンがかなり激情型で、リアリティがあった。父親の上着を羽織り狂い歩くのは父親への執着を思わせる。花を配るシーンは代わりに父親の形見を配る。レアティーズには愛用の時計、ガートルードには十字架、クローディアスには聖書?を投げつける。意味深な演出。

しかもこのオフィーリア、ぽっこりしたお腹をさするシーンがあり、妊娠していることを示唆していた。処女ではなくハムレットとは肉体関係があったことで2人の関係性の深さ、そしてそれが故の父親の死への悲しみが複雑さを増す。それぞれの関係性が具体的に描かれている。彼女の狂気が輪郭をよりはっきりとさせていてこの演出はよかった。

従来だとハムレットの孤独感と親子の関係性を主に描いて、恋愛、友情も主人公軸なものが主流だが、ひとりひとりの生活もよくみえる演出。それがとっちらからないで、点と点が線になる流れはよい。